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この月報原稿を書こうとして、なかなか手のつかないままに、「昨年は何を書いたのか?」「では、一昨年は?」と以前の原稿を読んでみました。ちょうど、自分の日記を読み返すようなものかもしれません。すると、自分の中にある一つの傾向に気がついたのです。 それは、タイトルにあげました「あれも、これも」という傾向です。普通何かの議論をするときに、これが正しい、あれが間違っているという風に一つのことを選んで主張するものですが、どうも最近は、あれでも良いしこれでも良いという、悪く言えば優柔不断、よく言えば包容力のある発言が多くなったと感じます。 神学生の頃を振り返ってみると、キリスト教は、一神論、一元論(哲学や神学において、すべてあるひとつの本質、原理からなり、自然の根底には普遍的で統一的な一連の法があると見なす考え方。究極的にたくさんの実体があると説く二元論や、究極的にたくさんの実体がある説く多元論と一般的に区別されるが、これらの入り混じった思想もある)であるとしていたわけで、その頃に比べるとずいぶん違ってきた(柔かくなってきた?)ように思います。 もっとも、神学生になる前に心理学を学んでいたときには、ユングという心理学者の考え方に惹かれていたので、彼の光と影、陰と陽を認める見方からすれば、あれも、これも、という考え方、当たり前のように思われます。 複雑な人間社会、人間心理を捉えていこうとする時、一つの理論、一つの説明だけでスッキリ整理したくとも、そうは行かない現実を見てしまうと、このあれもこれも理論のよさが見逃せません。「あれも、これも」理論は、対立があるときには、あれもこれも良しとして、対立のエネルギーを和らげる役割を果たしますが、どちらも良いといっているうちにエネルギーが下がってしまい、下手をすると動かないままで終わるということもおこります。何かに取り組もうとする時には、あれもこれも動かなくなってしまう落とし穴もあるのです。 これから開かれる受聖餐者総会、今年一年の教会の進むべき方向を決める時に、何を大切にしてゆくのか、あれも、これも認めて実行してゆくのか、それとも一点に絞って突き進んでゆくのか。 教会という様々な立場の人が集まる中では、どちらかというと「あれも、これも」を基本にしながら、その中で、優先順位を付けてゆく相談ができればよいのではないかと思います。しかし、時には思い切った決断も必要かと・・・・ この結びも、やはり、あれも、これもか・・・・ |
