[ハガルと出会う神さま」 

                           司祭 テモテ宮嶋 眞

 


 旧約聖書の創世記に、イスラエルの信仰の父といわれるアブラハムとその妻サラの物語があります。今回はこの夫婦のためにつらい立場に置かれた「ハガル」という女性を取り上げてみます。

 アブラハムとサラには子どもがありませんでした。それでも神さまは彼らに子孫の繁栄を約束されました。子どもがいないのに、子孫が反映するという祝福は、変ですね。実際彼らは年老いており、大変戸惑いました。そこで、サラは、ハガルというエジプト人の女奴隷を側女とし、アブラハムに与えて子どもを産ませようと画策します。

 16章。妊娠したハガルにサラはつらく当たり、ハガルは荒れ野へとのがれます。 そこに主の使いが現れ、女主人のもとに帰るようにと励まします。その神の名をハガルは「エル(神)・ロイ(見る)」と呼びます。あなたこそ私を顧みてくださる神なのです。また、生まれてくる子供にはイシュマエル(主は聞き入れる)という名をつけるように命じられます。

   21章。その後、神は約束通りサラに男の子を与えます。イサクの誕生です。イサクが無事に育つとサラは、ハガルとイシュマエルの存在がうとましくなりアブラハムに願って、ハガルとその子を追放させます。彼女らは荒野で水もなくなり、死の危険にさらされます。

   16節で、彼女は子どもが死ぬのを見るのは忍びないと声を上げて泣きます。神は天から子どもの泣き声を聞かれ、(彼女が泣いたはずなのですが、なぜか子どもの声にすり替えられています)そして、二人は救われるのです。その後も神はその子どもと共におられたので、その子は成長し弓を射るものとなります。

  この時代、女は子どもを産む道具としてしか、評価されませんでした。(現代でもこの価値観は根強く残っています。)サラはそれができないために苦しみの中にありました。そして、ハガルを利用しようとします。そしてそれを果たした後、今度は自分に子どもが与えられることで、ハガルを切り捨てます。同じ女性の間であるのに、互いに憎しみの内に置かれる不当な社会構造に気づきません。

 聖書の神は、新約聖書のパウロの手紙なども含め、このアブラハムと、サラの神として語られていきます。これは、大いに矛盾をはらんでいます。

しかし一方で、聖書の神は、エジプト人(外国人)そして奴隷であるハガルを「見られ」、彼女の目を「開き」、彼女の嘆きの声に耳を傾けられた神として、わずかに証言されています。この旧約聖書の時代から、神は、イスラエルだけでなく、外国の民、また、男子優先の社会で打ちひしがれた女性に心を開かれる神として描かれていることに、もっと注目していってもよいのではないかと思います。