「主にある喜び」 

                           司祭 テモテ宮嶋 眞

 


 

 フィリピの信徒への手紙は、著者パウロが投獄されているときに書かれた手紙として有名です。そしてこの手紙のキーワードは「喜び」という言葉です。

  ふつう私たちは、自分の思いの通りにことが進んだとき、「喜び」を表します。 しかし、パウロは、獄中から「喜び」を語っているのです。そして、「常に」喜びなさいと勧めているのです。この短い手紙の中で、くりかえし喜びという言葉が使われています。彼がおよそ、喜べなさそうな状況の中でなおも「喜ぶ」ことができた理由は何か、知りたいものです。

手紙の冒頭、挨拶ののちにパウロは「感謝します」と語り始めます。パウロは自分自身のことを考えていません。宛先のフィリピの教会のことに焦点を当てます。そして、彼らが信仰的に成長してきたこと、パウロが伝えたイエス様の福音をしっかり守っていること、そして、フィリピ教会の生みの親であるパウロに感謝の献金を送ってきてくれていることなど、フィリピの教会の様々な進展を喜んでいます。自分の状況はさておき、他の人々のことを願い、祈り、感謝できることがパウロの喜びの秘訣のようです。

1節にある「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」の箇所は、原文では動詞がありません。「生きるとは、キリスト。死ぬとは、更なる儲け」とでも直訳できます。生きるということはキリストのように生きること、キリストと共に生きること。死ぬのはそれ以上に素晴らしいこととでも考えればよいのでしょうか。パウロにとっては自分がイエス・キリストさまと一つにさせてもらっているという体験を持っているのです。かつての彼は自分の力で、自分の救いを確保しようと一生懸命でした。地位や名誉、財産そのものを求めるのとは違い、彼の努力は素晴らしいものともいえます。

しかし自分を関心の中心に据え、他のものを利用して自分の信仰を成長させようという生き方は、やはり行き詰らざるを得なかったでしょう。そしてキリストの十字架と死、復活のイエスとの出会いが彼を変えてきたのです。どんなにすばらしい生き方でも、自分中心で、他を仕えさせる生き方は、喜びとは無縁の生き方です。他の人のために自分の人生を捧げる生き方こそ、イエス・キリストの歩まれた道であり、そこへと招いてくださる道です。それはキリスト自身がそうであったように、平らな道ではなく、パウロ自身も獄中にあり、更には殉教の死へと導かれているのです。しかしその中で、本当の喜びがあるということを知らされ、彼は、獄中にあってもその喜びを失うことはなかったのです。キリストを信じるとは、この様な他者への愛と奉仕に生きる人生へと招かれることであり、心からの喜びをいただく生き方なのでしょう。