[祈りの秋」 

                           司祭 テモテ宮嶋 眞

 


 実りの秋、スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋など、秋にはいろいろなものがふさわしいのですが、「祈りの秋」と言うのもありかなと思います。夏の暑さ、冬の寒さの中ではなかなか祈りに集中できないのですが、秋の夜長、静かに虫(無私?)の声を聞いていると、自然に空を見上げたくなります。そして人生を想い、特に自分の人生を振り返り、その終わりの時を望みみたりするのもこの季節ならではと思います。。

 祈ることの多くの部分に「待つ」と言うことがあるように感じます。「エルサレムを離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待ちなさい」という使徒言行録第1章の言葉があります。イエス様が十字架に付けられ殺され、その後ご復活の報せを聞いた弟子たちでしたが、まだまだその本当の意味が分かっていなかったであろうその時に、弟子たちは、この言葉に従って、神から与えられるものを待ったのでした。祈りとは、神さまから与えられる何かを信じて「待つ」という行為そのものであるのかもしれません。

 行為と言いましたが、待つという字は、行人偏であり、そこには行ったり来たりするという意味が含まれます。じっとして停止しているのではなく、むしろ、静と動の二つが含まれているのではないかとすら思えます。聖公会では膝まづくこと、立ち上がることが礼拝の動作として繰り返し出てきます。膝まづくことで祈りが終わるのではなく、立ち上がることが含められているのです。

   前任の学校で、授業中にうるさくしていた生徒に対して、その場で注意することはせず、後から研究室に呼び出して忠告する先生がいらっしゃいました。どうしてそのようにするのか伺ったところ、その場で注意すると感情の赴くままに叱ってしまうことがある。そうではなくて、一度研究室に戻って、一呼吸し、その生徒にはどのように語りかければよいのか考えてから、その生徒に話しかけるのだとおっしゃっていました。時間をかけて、考えてそして行動に移すことの中にこの先生の祈りが込められていると感じました。そして、そのような祈りの中で、その子のことを嘆くのではなく、その子どもがどんな子どもになっていくのか、きっと素晴らしい子どもになっていくだろうか」とその将来を見据えて、それを今夢みながら、希望を持って語りかけるところにも、祈りの本質があるように思いました。

   その子どものまだ見ぬ未来を信じながら語りかけるところに、今すでにその子のすばらしさが実現していくのです。

  祈りはいつか、どこかで実現することを期待するばかりでなく、いま、ここでかなえられていくものでもあると思います。秋の夜長に、粘り強く、未来を信じて祈りを深めたいと願います。