「良くなりたいのか」 

                           司祭 テモテ宮嶋 眞

 


 

  ヨハネによる福音書5章にベトザタの池の物語があります。エルサレムにベトザタというため池があり、そこに5つの柱廊があり、多くの病人が横たわっていました。盲人、足の不自由なものなどなど。(彼らは時が来ると天使が、ため池に下ってきて水を動かし、その時最初に水が入ったものが、何らかの病気から癒されることを知っていて、待っていたのです。)そこに38年間病気だった人がいた。イエス様はこの人が横たわっているのを見て、「健康になりたいのですか」と問いかけました。その病人は「水が動くときにわたしをため池の中に投げ入れてくれる人がいないのです。ほかの人が私より先に降りています」と答えます。イエス様は「起きよ、自分の床を担って歩め」と言われます。そして直ちにその人は健康になり、自分の床を担って歩んでいきました。

 イエス様の病気に対する(病人に対する)やり方は少し変わっているといってもよいでしょう。普通は、健康を取り戻すというのは、病気の症状がなくなることを表していると思われます。しかし、イエスさまの場合は、病気に向き合う態度を問題にしているのです。

病気を治すために、自分を助けてくれる人がいないと嘆くこの病人は、他人に依存し、手伝ってくれない愚痴をこぼし、助けてくれない人々に文句すら言うのです。確かに病気は苦しさを伴います。

 新約聖書の説く、イエス様の秘密は、そのご生涯を通じて苦しみの中から、何か非常に大きな救いとなることが生まれてくるということを言っています。

それは、病気(人生)に向き合う態度を変化させることから生まれてくると言えます。病気にとらわれ、症状にとらわれ、そして助けてくれる人がいないことにとらわれ長い年月を過ごしてきた彼は、自分の内側に働く神さまからの力、それに向き合う自分の力を忘れていました。

  「健康になりたいのか?」という思いがけない、しかし当然であるイエス様の質問に対して、彼はまだ気づかずに、他人が助けてくれないことを訴えます。  

 イエス様はついに強硬手段として「起きて、床を取り上げて歩め」と招かれます。自分に起きている症状や他人の態度にとらわれるのではなく、自分が何をしたいのか、「治りたいのか、解決したいのか」自分のもっとも本質的な、本当の願いに素直に焦点をあて、願い、祈り、力を合わせていくことで、治癒や解決への道が開かれることを示してくれているのではないかと思います。自分の床とは、自分の果たせる責任を象徴しているのではないかと思います。自分が担える責任、苦労、十字架、いろんな言い方があるでしょうが、それが軽いと感じられ、自分の両足でしっかりと立って、イエス様の招きに応じたいと思います。