「イエス様のシャローム」を求めて  

                             司祭 テモテ宮嶋 眞

 



 旧約聖書に語られるイスラエル民族の歴史は、本来弱小の民であったイスラエルが、武力をもち、国を形成し、近隣の国々を制圧して、ダビデ、ソロモンの栄華へと上昇していく過程と、その頼りにしていたはずの武力によって、近隣の国々から攻められ、国を滅ぼされ、亡国の民になってしまうまでの下降の過程が描かれています。最後の王ゼデキヤは、目の前で子どもを殺され、両目をつぶされてバビロンへと引かれていきます。

 武力と言いましたが、正確には「暴力」です。そしてこのみじめな状態に陥った時に初めて、イスラエルは自分たちが、かつて近隣の部族を滅ぼしてきた暴力の問題に気づきます。

 そこから、彼らは「平和・シャローム」という大切な考え方を悟るのです。   「聖戦」とか「正義の戦い」といった理由をつけて暴力を正当化してきたことの問題は、イスラエルの歴史にとどまらず、さらに西欧の歴史の中にも受け継がれ、その筆頭は十字軍でしょうが、さらについこの間の9・11事件における、アメリカの多くの人々の反応にまで至っています。

 「暴力」に頼って人々を圧倒してきた側の人間の意識としては、逆にほんのわずかな反撃の暴力に対しても過激に反応します。つい先だってのパリでの同時多発テロに対して、フランス大統領が「我が国は戦争状態にある」と宣言しましたが、彼らは前年からシリアでの空爆に参加し、すでに暴力を拡大してきていました。大統領は戦争による被害が自国に及ばないことを期待し、国民には参戦したことすら気付かれないままにすることを願っていたのではないでしょうか。

イスラエルは、自国を失ってから、真のシャロームについて気づいてきましたが、現代のイスラエル国も、またもや暴力の連鎖に顔を突っ込んでいます。暴力によって得られるシャロームではなく、共に生きることの中で得られるシャロームこそが、イエス様が求められたものではないのでしょうか。