「だれにも言わなかった。恐ろしかったからである。」(マコ一六・八)] 

                           執事 アンデレ 松山健作

 


 

 だれにも何も言えない状況に陥った時、みなさんならどのように行動するでしょうか。どのようなことを考えるでしょうか。だれにも何も言えない状況は、何らかの危険が自らの身にあるゆえ、あるいは何らかの圧力が、あるいは何らかの恐れが生じているゆえに沈黙せざるを得ない状況に陥るのでしょう。

「イースターとは、イエスさまのご復活を記念するキリスト教最大のお祭りです。私たちは、教会暦にしたがって、その日を今か今かと待ち望みます。最近は、巷でもイースターは取りざたされるようになりました。あのディズニーランドもイースターの催しがあるという話が聞こえてきます。ディズニーランドでもイースターの催しがなされるぐらいですから、やっぱりイースターは楽しく、嬉しい事柄なのでしょう。

 しかし残念ながら、商業ベースのイースターは、主のご復活ということとは、無縁なようです。とにかく教会ベースにしろ、商業ベースにしろ、楽しく、嬉しいお祭りということだけは共通しているようです。

 そんなことを考えながら、復活説主日のマルコによる福音書十六章一節から八節の復活記事を読んでいますと、楽しさや嬉しさという事柄は一つも見当たりません。三人の婦人がイエスさまの埋葬されているお墓を訪れて、遺体がなくなっていることに気づき、代わりにいた若者から「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。」(一六・六)と告げられるのです。

 婦人たちは、この出来事を喜びに変えられなかったように見えます。恐れをなして正気を失い、逃げ去ってしまいます。そして、だれにも何も言えない状態に陥ります。これは婦人たちも男弟子たちと同様に復活という出来事に際して、逃げ去ってしまった様子を描写しているように思えます。

 私は今までイースターとは、楽しく、嬉しく、喜ばしいお祭りであるとばかり考えてきました。けれどもこの三人の婦人の様相を想起しながら、恐れに陥り、だれにも何も言えなかった復活という出来事は、果たして今を生きる私たちに何を語りかけているのだろうかと考えさせられています。この復活節の時にゆっくりと考え、主のご復活を想起する期間にできればとお祈りしています