「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書20:21) 

                           執事 アンデレ 松山健作

 


 

  パキスタン、インドネシアでキリスト教会を狙ったテロ、シリアでは爆弾が飛び交い、スーダンでは内戦と飢餓、ミャンマーではロヒンギャが迫害を受け、アメリカでは乱射事件が繰り返され、チェルノブイリ・福島などでは放射能に苦しむ人々が存在し・・・挙げだすとキリがないのかもしれません。「平和」とは、何なのでしょうか。そして私たちの置かれている現状は「平和」なのでしょうか。

 私は、専門がら朝鮮半島の平和について関心があって、数年のあいだ韓国で学び、今も南北問題に関心を持って、特に植民地期の歴史を専門にしています。最近は、そんな学びも停滞気味で、そろそろ再開しないといけないなと思っているところです。

 おそらく私の平和観は、絶対的平和主義に近いのだろうと思うのですが、そんなことを敏感に感じとられる方から、「松山くんは、平和に対する関心が高いでしょ。でもその思いだけで聖書を読もうとすると、誤解を生むときもあるから気をつけた方がいいよ」というアドバイスをいただいたことがあります。

 「確かに」と思いつつ、聖書を読むときは、イエスさまが働かれたユダヤの状況、そして聖書が書かれた当時の状況、そして私たちが今置かれている状況の三つを想定するように心がけています。けれど、結局福音を語ろうとする者の恣意性というものは、完全に拭い去ることはできないのだろうなと思いながら、日々をどっちつかずのうちに過ごしています。

 聖霊降臨日は、ヨハネ福音書の二〇章一九節以下が読まれました。そこには二度「あなたがたに平和があるように」という言葉がイエスさまによって繰り返されます。何で二回も繰り返すのか、不思議だなと思っています。

 ギリシア語聖書で「平和」(エイレーネ)は、「戦争や争いのない状態、一致、調和」という意味を表します。ヘブライ語聖書で「平和」(シャローム)は、「安心、無事、平安」などの意味です。どちらの言葉も挨拶言葉であるのですが、イエスさまがこんなに短い間隔で挨拶を二回繰り返したとは、考え難いような気がします。

 イエスさまの弟子たちは、イエスさまの十字架上での死を通して、恐れから闇に陥り、すべての戸に鍵を閉めて、外界からの恐怖を避けていました。イエスさまは、そんな恐れを払拭すべく弟子たちの前に突如現れ、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃいます。イエスさまは、弟子たちをどん底の暗闇から希望満ち溢れる喜びの世界へと救い出したのです。

 つまり、この復活のイエスさまの挨拶には、人々をどん底の暗闇から光ある喜びへと向かわせる力があったことを示しているようです。弟子たちの心の動きは、不安と苦しみに陥っていたにもかかわらず、復活の命に触れることで希望が与えられ、解放へと向かわせられました。これこそが聖霊の働きであって、イエスさまの権能であり、私たちにも与えられる恵みです。この復活のイエスさまの力によって、現代の苦しみあるところに私たち信仰者が参与できますようにと祈っています。