「恐れることはない。ただ信じなさい」(ルカによる福音書五・三六) 

                           執事アンデレ 松山健作

 


 

 会堂長のヤイロという人に十二歳の娘がおりました。その娘は何らかの理由で瀕死の状態にありました。ヤイロは、おそらく代われるものなら代わってやりたいという親心でイエスさまの元へ向かい「どうかおいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」(五・二三)としきりに願いました。

 このヤイロの渾身の願いにイエスさまは、応答されました。しかし、その道半ばで恐れていた事態が一行に告げられます。それは「お嬢さんは亡くなりました」(五・三五)という一報です。ヤイロにとって一番恐れていた娘の死です。イエスさまが手を置く前に訪れてしまいました。一報を知らせた使者は「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と娘の死を受け止め、イエスさま一行に諦めを促しています。

 しかし、私たちはすでに知っているようにイエス・キリストは十字架上で死に打ち勝たれた方です。イエスさまは「恐れることはない。ただ信じなさい」(五・三六)と彼らの恐れを打ち消し、自らにすべて委ねるようにと仕向けられました。

 私たち人間の日常は、ただ単に、純粋に何かに絶対的信頼を寄せるということにおいて鈍感な世界であるように思います。全く曇りのない心で何かを信じることは、難しいです。そうしようとしても、何かのタイミングで疑いの心が生まれたり、不信仰に陥ります。

 イエスさまは、少女の死を告げ知らされた後も「子供は死んだのではない。眠っているのだ。」(五・三九)と言い、ヤイロの娘のところに向かいます。しかし、このイエスさまの言葉を誰も信じようとせずに、人々はあざ笑っていました。人々は、死んだ人が眠っているわけがないと人間的な価値観によって、イエスさまの言葉を信じることができません。

 けれども、イエスさまは少女の両親と弟子たちの前で「タリタ、クム(少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい。)」(五・四一)と言い、奇跡を起こされたのです。どれだけの人が仰天し、イエスさまの力を信じたでしょうか。あざ笑っていた、人間の浅はかさに気づいたでしょうか。死という恐れと悲しみのどん底にいた子供の両親や友人、知り合いがイエスさまの力によって、どれだけ救われたでしょうか。

 イエスさまの奇跡は、私たちを勇気付け、恐れや不安からの解放をもたらします。私たちは、疑いや不信仰という人間的な思い、判断基準、価値を捨てて「ただ信じる」という神さまにすべての事柄を委ねる信仰の道へと招かれているのです。