「イースターおめでとうございます。」 

                           執事 アンデレ 松山健作

 


 

 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」 (ルカによる福音書二三・六ー七)

 イースターおめでとうございます。復活日主日の聖書をじっくり読んで見ますと、「復活」という言葉が新共同訳聖書では、二回登場します。この「復活」を説明するにあたり、イエスさまが死に打ち勝ち、甦られたのだとステレオタイプ的な表現を使って説明してしまう自分がいます。

 しかし、この「復活」という言葉をどれだけの人が理解し、またどれだけの人が喜びを持って共有できているでしょうか。また私自身もどれだけ、この出来事を理解できているのかが問われています。

 この「復活」の喜びを共有するには、その前にどれだけ準備ができたかということに関係があるのではと感じています。つまり、イエスさまの「死」について、私たちはどれだけ悲しみ、苦しみ、嘆いたかということに関係するのではないでしょうか。みなさんは、イエスさまの「死」に際して涙を流して、心を痛めたでしょうか。

 ところで、この「復活」という言葉、教会ではごく自然に用いられます。ですので、私たちは特に疑問も感じずに用いるかもしれません。けれども、よくよく考えてみると、実感しにくく、説明も簡単ではありません。

 原語のギリシャ語聖書で、この「復活」という言葉は、エゲイロー(?γε?ρω)とアニステーミ(?ν?στημι)という言葉の二種類が用いられます。同義語だそうです。〈立てる〉、〈起こす〉、〈目覚める〉、〈興奮する〉、〈起き上がる〉などと訳されます。

 引用の聖書ですと、六節の方はエゲイローで、七節はアニステーミとなっています。何かニュアンスの違いはないのかと辞書を調べ探してみましたが、私自身ギリシャ語聖書学者に質問したいです。もしかすると、六節の方が受動的な意味合いが若干あるのかもしれません。

 このように原語が異なる「復活」の意味合いで、何より大切なことは、この「復活」という出来事によって、イエスさまが「死」という領域から解放されたということです。同時に婦人たちが「復活」という事態に驚き、恐れたように、あらゆる予想に反して新しい生のしるしが示されたということです。

 これはイエスさまの「死」を悲しみ、嘆いていた者に対して、希望の光が差し込んだことを意味します。イエスさまの預言が成就したことを意味します。今年もこの復活の喜びを共に分かち合い、福音を広め届ける働きが私たちの共同体で継続されますようにとお祈りしています