「イエスさまへの眼差し」 

                           執事 アンデレ 松山健作

 


 

  イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。(ルカによる福音書九章十八節)

 一つのりんごが目の前にあります。ある人は、右から眺めています。ある人は左から眺めています。ある人は、上から眺めています。ある人は、斜めから眺めてみます。

 りんごは、自然のものですから眺める角度によって、形も違えば、模様も異なります。またその人の見方によっても相当違った捉え方をするでしょう。またりんごに対して、好き嫌いの感情やりんごにまつわるさまざまなエピソードも異なるでしょう。

 このようにりんご一つとっても私たちの認識は、同一ではありません。多種多様なりんごに対する捉え方が可能となるでしょう。りんごの例えが良いかはわかりませんが、イエスさまが働かれたその時代、やはりイエスさまを捉えるその視線もさまざまでした。

 当時の支配者たちが見るイエスさま、群衆たちが見るイエスさま、弟子たちが見るイエスさまとやはり見え方はそれぞれです。ルカによる福音書では「イエスについて、『ヨハネが死者の中から生き返ったのだ』と言う人もいれば、 『エリヤが現れたのだ』と言う人もいて、更に、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいたからである。」(九・七ー八)と、当時の人々がイエスさまに対して、いかなる視線を送っていたのかについて記されています。当時のユダヤの支配者であるヘロデは、「ヨハネなら、私が首をはねた」(九・九)と言い、「イエスという男が何者であるか」という問いを抱きます。

 この問いの後にイエスさまは、五つのパンと二匹の魚で五〇〇〇人の人々を満腹にさせる奇跡を起こしました。しかし、それに遭遇した人々、その恵みを受けた人々でさえ、「イエスという男が何者であるか」という問いに対して、正しい答えを導くことができませんでした。

 いや、むしろ「洗礼者ヨハネだ、エリヤだ、昔の預言者だ」と以前の考え方から、抜け出すことができませんでした。しかし、一方で弟子の一人であるペテロは、人々の問いに対して、「神からのメシアです」(九・二〇)と応答したのです。

 この出来事は、ペテロの信仰告白と称されます。ここで疑問に思うのは、なぜ、ペテロがいち早く、イエスさまへの視線を変えることができたのか、心が開かれたのか、真理を悟ることができたのだろうか、という疑問です。

 この疑問に応えることは、難しいのです。しかし、ペテロは、イエスさまが一人で祈る姿に居合わせた愛弟子です。その姿と奇跡に触れながら、人が通常抱く期待や通念に縛られているところから、もう一歩踏み出してイエスさまの真の姿を見る新たな目が与えられたのではないでしょうか。心が開かれたのでは、ないでしょうか。

 私たちもイエスさまの祈る姿にペテロが真理を悟ったように、古い考え方にとどまらず、真理を悟る新たな眼差しが与えられますようにとお祈りしています。