月報「コイノニア」
2005年5月号 No.261


みんなで、ね。

司祭 ミカエル 藤原健久

 兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。          (コリントU 13:11)

 これは、15世紀にロシアのアンドレイ・ルブリョフが描いた、「聖三位一体」のイコンです。画題は、もともとは、創世記一八章にある、アブラハムが三人の主の御使いをもてなした、という話から取られています。古いイコンには、テーブルの横で給仕するアブラハムとサラがおり、またテーブルの上に豪華な食事が乗っていたのですが、徐々に簡略化され、洗練され、このような形になりました。ちょうど三人が、均衡を取って配置されているところから、父、子、聖霊の三位一体の神を黙想するのに適しているとされ、大変大切にされてきました。
 イコンは鑑賞のためではなく、黙想のために描かれた絵です。イコンの前で私たちは、心を開けて黙想することが求められ、またイコンも私たちの心に何かを語りかけてくれます。神学生の時、ある司祭よりこのイコンの解説を受けました。それは次のようなものでした。「この三人は会話をしています。そしてテーブルの一方は空いています。このイコンは空いている一方に私たちが座り、会話に加わることを求めています。」私たちの信じている神は、「三位一体」の神です。「三にいまして、一つなる神」これは教義としては大変説明の難しいものです。しかし黙想を通して気付かされるのは、これはコミュニケーションの神だ、ということです。父、子、聖霊の交わりが、愛の動きを作り出す。そして神を信じる者は、この交わりに加えられてゆくのです。
 小さな絵本が我が家にあります。題名は「みんなでね」(まついのりこ著)。初めて絵本に接するくらいの小さな赤ちゃんを対象にしたお話です。内容は至って簡単。各ページごとに次のような言葉が記されています。「みんなでね、おきたの。」「みんなでね、まんまたべたの。」「みんなでね、さんぽしたの。」…それぞれには可愛い絵が付され、真ん中には小さな子供、その周りにはぞうさん、ねこさん、かたつむりさん、ありさん、ふうせんさんという仲間達がいます。そして一緒に毎日の何気ないことをしています。この絵本を子供にゆっくりと読んであげると、喜んで聞きます。そのうち言葉を覚えて、自分も声を上げて、一緒に読みます。みんなで、一緒にすること、このことに大きな安心を抱くようです。
 人間は、本質的に、交わりの中で生きる者のように思います。交わりがあるからこそ、人間らしく生きることができるのでしょう。人は、愛する対象があるからこそ、愛することができます。愛は交わりの中で生まれます。誰かと一緒に活動することは、トラブルも起きますが、一人では味わえない喜びがあります。教会は楽しい、喜びの場です。そしてこの喜びは交わりから生まれているのだと思います。神との交わりと兄弟姉妹の交わり、両者の喜びです。教会活動も、誰か一人の強力なリーダーシップによって導かれるものではありません。みんなで、知恵を出し合い、相談し、祈り合って、進められてゆくものです。「みんなでね」歩む時に、神さまのお導きが豊かにあることを信じたいと思います。


京都聖マリア教会史 (その三)

青い目をしたお人形は
(戸田幸子姉とのインタヴューから)

ヨシュア 立石昭三

マリア教会史(その2)を校正して頂く為に、雨の中、本年3月28日、ライフ・イン・京都へ戸田幸子姉を再訪した。戸田姉は「もう昔の写真や本はどなたにも差し上げることもありませんし――」と言われながらも最後に「これは叔母の幼稚園です」と見せられた本が「下諏訪幼稚園史」であった。この幼稚園の創始者は幸子姉の叔母で、東京女子大時代に、内村鑑三氏に私淑しておられたとのこと。その中に「青い目をしたお人形」がある。これは立派なマホガニーの箱に入った身長60cmくらいのセルロイドのお人形で、寝かせると「ママー」と声を出す。箱の下にある引き出しにはこのお人形の着せ替え一式が入っている。(写真1)
「私が子供の頃行っていた戦前の台北幼稚園にも同じものがありました」と言うと、それから話は青い目をしたお人形の話に移った。これは野口雨情作詞、本居長世作曲による『青い目をしたお人形はアメリカ生まれのセルロイド、日本の港に着いた時、一杯、涙を浮かべてた。私は言葉がわからない、迷子になったら何とせう?優しい日本の嬢ちゃんよ、仲良く遊んでやっとくれ、仲良く遊んでやーっとくれ』と言うよく知られた童謡である。同じ頃、同人の作詞、作曲になる『赤い靴、履いてた女の子』と言うのには、ある女が結核で死に、その遺児もアメリカに行く直前に小児結核で死んだモデルがあり、一寸悲しいような怖い印象があるが、これにはそんなことはない。
この「青い目をしたお人形」は1926年(大正15年、昭和元年は7日しかない)12月25日、大正天皇の崩御により1927年(つまり昭和2年)欧米で勉強しておられた三笠宮が急遽、帰国されたのと同じ船でアメリカから日本の幼稚園、小学校へ一万二千体余も寄贈されたものである。
当時、世界的な不況で日米間の関係が悪化し、日本人を対象にした「新移民法」などが出来たのを憂うる親日家のシドニー・ギューリック牧師と渋沢栄一氏が提唱した日米外交の一環で、これらアメリカから来た人形はベティちゃん、メリーちゃん、ヘレンちゃんなどと夫々の名前があり、送り主の手紙とパスポートまで添えられていた。その行き先と現在の保存数はかなりはっきりしていて、例えば宮城県に221体贈られ、5体が残っているなど、全国では300体残っている。横浜の人形館や各地の資料館、いくつかの小学校に残っている。(文献1)
1973年3月15日、NHKの『スポットライト』では愛媛県に残る5体の「青い目のお人形」のことが放送されたし、1991年6月、ギューリックV世の来日の際は、東北に残る30体を展示して廻ったりして誌上で、また、テレヴィでかなり有名になった。
日米の不幸な太平洋戦争中には子ども達のお人形といった意識は薄れ、幼稚園児、小学校生徒の苛めの対象になったり当局により廃棄を命じられたりした。時代に翻弄された「語り部」とも言える。1943年2月19日の毎日新聞にはその様子が出ている。その見出しが今日から見てもすごいもので「青い目をした人形、憎い敵だ、許さんぞ」、とある。他の新聞にも「敵国スパイ」、「仮面親善使」などとある。
日本からアメリカへもお返しの形で日本人形が58体贈られている。日本からのお人形は手の混んだもので、「藤娘」風あり、「汐汲み」風もあるが、最も多いのは胡粉の顔に市松模様の着物を着付けたもので、すべて「大和日出子」と名づけられていた。下着、帯に、足袋も履き、ハコセコを持ったものもある。三重県には青い目のお人形が八体、あちこちの小学校に残っているし、アメリカに行った黒い目のお人形も私のネーベン(内職)先の四日市市の山中病院に一体、置いてある。(写真2)日本に残るこれらの人形はとてもリアルで「髪の毛が伸びるので、時々髪を切らなければならない」とか「古道具屋に売っても、知人に上げても何故か、すぐ戻ってくる」などと言われているものもある。
今年4月下旬にも埼玉県に残る「青い目をしたお人形」のNHK放送があって、このお人形の歴史を知る人々の胸を痛めた。
京都にもあるはずだが、菅原先生にお尋ねしても記憶はない、とのこと。京都人は応仁の乱(1467-1477)のことでさえ、「先のドンド(大火)」と言う位、古いものが沢山残っているところでもあるし、100年くらいの昔のことなど未だ、歴史上のこととして興味の対象にならないのかも知れない。

文献1 : 高岡美智子「もう一つの日米現代史、人形大使」 日経BP社、2004年。

写真1 :
青い目をしたお人形。
下諏訪資料館蔵

写真2;
黒い目をしたお人形。
四日市山中胃腸科病院蔵。


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