月報「コイノニア」
2006年5月号 No.273


私の中の小さな復活

〜「ポネット」1996年、フランス映画〜

司祭 ミカエル 藤原健久

「遊ぼうよ。」「遊べない。ママを待っているから。」
「死んだら死ぬんだよ。おじいちゃんは死んだきり。」
「誰も待っていなかったからよ。」

「どうしてママは私に会いに来てくれないの。イエス様は友達のために復活したの。私はママにとって友達以上よ。」

「悲しむのはやめて。」「悲しんであげなくちゃ。」
「ママも悲しんで、天に昇るとき、きっと泣いたわ。神様もね。イエス様も地上で泣くことがあったけど、ほとんどの時は子どものように陽気なの。」
「子どもなんて楽しくないわ。」

「全能の神様、ママは死にました。神様と一緒のはずです。でもママとお話ししたい。頑張ったのに話せません。全然、答えてくれません。ママに私とお話しするように伝えてください。……ママ、見てた?全能の神様にお話ししたのよ。大きなキスを送るわ。」

 ポネットのお母さんは、交通事故で亡くなってしまいました。お母さんに会いたい、せめてほんの少しでもお話ししたい…どうしたらこの願いがかなえられるのか。大人が語る「死」の説明も、お友達からの慰めやからかいも、ポネットを納得させません。ポネットは考え、悩み、祈り、泣きます。ひたすら待ち続けます。そして涙も枯れ果てようかという、その時に…
 「死と復活」がテーマとなった映画です。聖書の言葉もでてきます。教会の教義も、礼拝堂もでてきます。けれども難しい議論はありません。ポネットが求めるのは「ママに会いたい」という極めて私的な願いです。けれどもその中に、普遍的な課題が含まれるのです。「私にとっての復活とは何か」を懸命に問うことによって、イエス様のご復活へと行き着くのです。
 それにしても子供たちの演技が素晴らしい!主演の女の子は当時四歳。この映画でヴェネチア映画祭で最年少の主演女優賞を獲得しました。冒頭のシーンから、この子はずっと八の字の眉をしています。苦悩に満ちた顔です。それが最後には輝く笑顔になるのです。感動のラストシーンは見てのお楽しみ。
 現実では、愛する人と死別してしまった子供たちは、沈黙してしまうことが多いようです。周囲の人が不思議に思うほど、その件には触れません。きっと心の中で、一人で葛藤しているのでしょう。日本と欧州との文化的背景の違いがあるのかも知れませんが、悲しみや疑問を思うがままにぶつけ、周りの人もそれを受け入れ、考え、ぶつかることができるなら、復活への道は、一人で悩むより、早くたどり着けるのかも知れません。
 舞台はフランスの片田舎です。自然がとてもきれいです。優しい陽の光、緑とそよ風、虫や鳥の声が、ひたすらママを待っているポネットを包んでいます。大人は一緒に待てません。すぐにあきらめ急かします。自然だけがポネットと一緒に、穏やかな時を過ごしていました。

(上映会は、6月11日、午後1時半から、幼稚園ホールにて。入場無料。)


寄稿
京都聖マリア教会史 (その6)

木村氏ノート、個人編(その1)

ヨシュア 立石昭三

2―1・山本進兄
ご本人が現在も京都聖マリア教会におられますので此処での紹介は遠慮させていただきます。

2―2. 藤村俊一兄(故人)、夫人貞子姉(故人)
 逝去時の住所:京都市左京区岩倉中在地町九四 ここにはお二人のお孫さんのみ住まわれていましたが、お祖父さんの記憶はない、とのことでした。
 藤村兄は京大工学部電気科部長"青柳栄司"先生が主催されていました電気学校を卒業直後に満州電業株式会社に就職。白城子(ハ―2)支社に赴任されました。昭和10年(1935)頃のことで聖マリア教会で受洗されていたと思われます。そして終戦まで白城子に勤務。終戦後引き揚げ予定のところ、兄はロシア語が出来ましたので、通訳として残留。帰国は一年以上遅れたとご本人から伺いました。兄のロシア語は相当なものでありましたので、関東軍とソ連軍が衝突をしましたノモンハン(ナー1)事変時には、兄は軍人ではありませんので、現地には入られませんでしたが、後方で活躍され、それらのお話をうかがい、後に紹介します故篠田統先生の事跡に継けたいと思い、「マリアの会」で、次回に話し合いを約しましたままで兄は天国に先立ってしまわれました。
 兄は「マリアの会」の母体であります聖歌隊には関係されておられませんでしたが、こちらも聖歌隊との関係はありませんで中堀兄が、お二人のお住居と近くで、又お二人共戦前に、マリア教会の礼拝に出席されていましたので、ご一緒にマリアの会に出席されたのでした。今は天国で、お二人でいろいろ話し合っておられるでしょう。

2―3. 堀儀一兄、絢子姉ご夫妻
 お二人共聖マリア教会で受洗、結婚後、渡満しておられます。堀兄は2-2.藤村俊一兄と同じ電気学校の後輩に当ります。昭和13年(1938年)の卒業で就職も同じ満州電業株式会社で勤務先は満州国の首都、新京―長春(ター1)で、単身赴任の予定でありましたが、急に結婚話が持ち上がりました。昭和13年(1938年)頃になりますと、戦争での負傷者も増加、日赤病院も人手不足となり、民間の婦人の奉仕活動が盛んになり、マリア教会の婦人会からも何人かの方々が奉仕に参加しておられました。その中でも橋本堅次教会委員夫人「とよ姉」(?)は積極的でしたが、その目に留まりましたのが「絢子姉?」でありまして、橋本委員ご夫妻のご紹介で堀兄の渡満前にと、急遽式を挙げられ、お二人そろって任地、新京に赴任されました。そして私、木村も満州島津に着任後は出張時にはお互いに泊り合ったのですが、私が堀家にご厄介になった回数が多かったと記憶しています。堀家の社宅は暖房設備がペチカ暖房で戸外の温度がマイナス20℃以下になりましても大丈夫でした。このペチカの名は唱歌等でご存知の方は多いでしょうが、実物を紹介します。ペチカ;円形直径約1m余。焚き口から燃料(石炭等)を焚く。熱気、煙がペチカ内部の螺旋状の煙道を通る間に、接している各部屋を暖める。煙が全部排出された後、煙道を閉じて熱気が逃げないようにする。一日一〜二回の燃焼で各部屋は十分暖かである。丸型ではなく、壁に煙道を通した壁ペチカもある。燃料の石炭が切れると大変ですので、夜間に堀兄と一緒に配給所に行き、カチカチに凍結した道路の上に石炭の入った袋を二人で引っぱって社宅に戻ったこともありました。
 お二人の仲も大変よかったと見受けましたが、突然京都の橋本教会委員から堀兄の訃報が届きました。早速、新京のお宅へ問い合わせましたが、手紙は受取人なし、と戻って来ました。その後、新京出張の予定が入りましたが、折悪しく、新京駅付近で、ペスト発生で出張の企画をした軍の係官が「新京へは行けますが、ペストが完全に終息するまで足止めになりますので中止させていただきます。」と言うことになりました。木村はその後、心残りではありましたが、昭和16年(1941)、北京に赴任し、堀兄ご夫妻の状況は、木村の頭の中では残念ながら不明のままで終わりとさせて頂きます。

2―4 大塚重遠兄
 大塚兄のお名前は間違いないと思います。受洗されていましたかどうかは判りませんが主日の礼拝に出席されていまして写真にもお顔が見られます。その頃、奥谷久彦先生のご指導で出来上がりました京都聖マリア教会の長老、信徒個人の歌の中で大塚兄は、"大きな男のオンチャンは"と歌われておられますように長身でガッシリとした体格の方でした。大塚兄も小野恒造兄等と同様に,京大電気科卒業と同時に島津製作所に入社され、レントゲン部に配属、三条工場に勤務しておられました。
 昭和16年(1941)の春であったと記憶していますが、南満州鉄道株式会社(通称「満鉄」)から島津に対し、各地にある満鉄病院に設置してあるレントゲン装置(エックス線装置と呼ぶようになりましたのは戦後と思います。)のメンテナンスをお願いしたいので技術者の派遣を依頼する旨の文書が届きました。当時、各地の満鉄病院に設置のレントゲン装置の大多数は島津製であり、各病院には欠かせないものであり、大連(ラ‐2)、奉天(サ‐5)沈陽(藩陽)、新京、長春、ハルビン(ハ‐3)等の各地の総合病院には各科にレントゲン装置が設置される等、合計しますと五〇台にもなろうかと思われる台数でありました。
 島津は満鉄の依頼を受け、本社レントゲン部からは大塚兄、現地からは関東州内は大連出張所から一名、満州国内は木村が協力することになり、満鉄からはその病院が管轄されています電気段から二〜三名が参加するというグループで、同年7―8月に実施しました。涼しい夏の満州とは言いましても、大塚兄は初めての外地での作業でさぞ大変であったと思っています。


主日実習の神学生の紹介

4月16日からウイリアムス神学館ウイリアムス神学館より三年生の井上進次神学生(大阪教区)が当教会で一年間実習されています。よろしくお願いします。

パウロ 井上進次神学生

 1961年7月11日神戸市生まれ、満四四歳。関西学院大学経済学部卒業後、兵庫県の某電鉄会社勤務。芦屋聖パウロ教会出身で90年12月受洗。ご家族は奥さんと高二、中一、小五の三人の男の子という五人家族。趣味は登山で、高校時代は山岳部に所属し、本格的な重装備の登山を体験。また大学時代にはYMCAでの積極的な活動をされていました。教会生活の中で、特にキャンプ等を通しての教会学校の活動への思い入れが大きいそうで、日曜学校・ジュニアチャーチの活発な当教会にはとても期待できるところです。詳しくは次号にて。


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