月報「コイノニア」
2006年6月号 No.274


信仰なき時代の祈り

〜「キッド」1921年、アメリカ映画〜

司祭 ミカエル 藤原健久

「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
(サイレント映画なので台詞なし。)

 ご存じチャップリンの初期の傑作です。この映画の中では、お祈りのシーンが二度出てきます。それは、チャーリーともう一人の主人公“キッド”(当時まだ5歳の名子役)が、食前と、夜眠る前にお祈りするのです。私は他のチャップリン映画でお祈りする場面を思い出すことができません。“貧しいながらも楽しい家庭”の一こまととらえればそれまでなのですが、もう少し意味がありそうな気がします。

一、貧しい者は幸いか?
 映画の大部分は、貧しい人々の生活の場面です。主人公の二人も貧しい生活をしています。この映画には、とってつけられたようなギャグはありません。貧しい人々の日常を、誇張して描く所に笑いが生まれています。ここには、子ども時代を極貧生活で過ごしてきたチャップリンの、鋭い現実観察、人間理解があります。なぜ、私たちはこの映画を見て楽しめるのでしょうか。それは、極端な貧しさの中に人間の真実の姿を見るからかも知れません。冒頭、キッドの母親が、出産を終え、慈善病院を退院するシーンがあります。彼女は未婚の母で、どこにも頼る所のない身の上でした。赤ちゃんを抱っこする彼女の瞳はうつろで、途方に暮れています。その次のカットは、キリストが十字架を担いでいる姿が映っているのです。これは、この貧しい女性の苦しみの中にこそ、キリストの受難がある、というメッセージなのでしょう。貧しさは苦しみ以外の何者でもありません。けれども貧しさのなかにこそ、日頃私たちが気づかない、また気づこうとしない、真実の悲しみ、涙、また笑いと希望があるのかも知れません。

二、子どもはつらいよ。
 主人公のキッドは、本当に可愛く、元気で、利発そうな子です。けれども、彼は全く無力です。警官に追いかけられ、孤児院に連れて行かれそうになります。実の母親からの懸賞金に目がくらんだ大人に、眠っている間に“拉致”されます。いくらもがいても大人の手は振りほどけません。今は金持ちになった母親との対面の場面でも、疲れ果てたキッドは無表情です。大人達の身勝手さに振り回されてばかりなのです。チャーリーが連れ去られたキッドを必死になって探して、疲れ果てたときに、夢を見る場面があります。夢の中は、いつもは意地悪でずるくて怖い町のみんなが、天使になって無邪気に踊っている平和な世界です。ところが知らぬ間に悪魔が入り込んで、人々の心に罪深い思いを植え付けてしまいました。そこからトラブルが発生し、チャーリーは傷付けられてしまいます。チャーリーに寄りすがり、純粋な涙を流すのは、キッドただ一人です。けれどもその姿は煙のように消えてしまいます。この場面には、純粋な子どもの魂も、罪深い大人との交わりによって、その純粋さがいつの間にか消え失せてしまうことを示しているような気がします。
 私たちが生きる、この世界は、決して純粋無垢な世界ではありません。信仰深い世界でもなく、「祈れば解決する」ようなものは殆ど何もありません。けれども私たちは子どもに祈ることを教えます。子どももいつかは純粋さを失います。ずるがしこい大人の仲間入りをします。そんな大人が最も苦しいとき、実は彼を支えてくれるのは、子どもの時に教わった祈りなのかも知れません。親が一緒に祈ってくれた、自分の為に祈ってくれた、その事実が、最後の最後で私たちを踏ん張らせてくれているのかも知れません。

(この映画のDVDを貸し出します。希望者は牧師に申し込んでください。書類に必要事項の記入をお願いします。貸出期間は最大一週間です。)


寄稿
京都聖マリア教会史 (その7)

木村氏ノート、個人編(その2)

ヨシュア 立石昭三

 記憶では作業は昭和16年(1941)7月上旬、関東州の大連から始まり、約一週間で関東州でのメンテナンスは無事完了。続いて満州国側の作業となりますので、私が大連まで大塚兄を出迎え、奉天(サ-5)―沈陽(瀋陽)着。先ず島津奉天出張所に挨拶の後、所長同道で満鉄本社の関係部門や京都一中の大先輩で満鉄理事のI氏に挨拶。翌日から作業開始となりました。大塚兄からは、「奉天の木村と島津本社で聞いて来たが、マサカ忠一さんとは思いつかなかった、大助かりだ」と過分の期待を受け、最初は奉天から南下,大石橋、営口からとなりました。メンテナンスの対象となりますレントゲン装置は最新式のものから、大塚兄が、こんな装置がまだ現役か、と驚かれる装置まで(実は私達はその旧装置全盛の時代から始めていました。)新旧の展示会のようでありましたが、問題点は全部解決。大塚兄は満鉄から感謝をされて帰っていかれました。その間、全然問題が無かった訳ではありませんが、今思い出しましても思わず苦笑いの出ることがありました。場所は奉天の南方、製鉄で世界的にも有名な鞍山(ア-1)病院でのことであります。結果から言いますと原因は一個の画鋲が何処から紛れ込んだのか、束ねた電線の間に入り込み、線の被覆を通して突き刺さり、指で押す部分が電線保護の金属に接触、そのため絶縁不良を起こしたのです。戦前の画鋲の殆どは指で押し付ける部分は真鍮でしたのでこのようなトラブルが発生、大の男五人が丸半日振り回され、空前絶後と苦笑したものでした。話は変わりまして満州国は東、北、西を当時のソ連(現在のロシア)と国境を接していました。その内、北は国境には黒竜江が流れていまして、国境は江の中央と定められていましたが夏期には江を通行する日本の琵琶湖の遊覧船位の船は国境線に関係なく航行していました。冬期はキビシク岸に近づきますとソ連軍が銃を構えると関東軍の人が言ってました。
 一方陸続きの東の綏芬河(サ-6)と西の満洲里(マ-2)は陸続きで元来モスクワ―ウラジオストク間のシベリア鉄道、東よりの地方に当ります。満鉄病院のメンテナンスリストには西の満ソ国境の満州里および前述の藤村俊一兄在職中の白城子−白城は除外されていまして藤村兄との再会は出来ませんでしたが、東の国境、綬芬河には行き、周囲は海で、陸続きの国境のない日本では出来ない見聞をしました。
ご承知のとおり、汽車、電車のレール巾には種々あります。日本のJR新幹線は4フィート8インチ、在来線は3フィート6インチであります。そしてシベリア鉄道は5フィートであります。ところで京都御所の南側、丸太町通り寺町から西へ、堀川までの間の路面電車用のレールが3本敷設されていましたのをご記憶の方もおられますかと思いますが、これは一本は共用でそれと3フィート六インチのレール上を、日本で最初であり、後に堀川線・チンチン電車が走り、他の4フィート8インチには一般の路面電車が走っていました国境の町、緩芬河の駅構内は勿論、駅の手前数Kmの線路は総て三本でした。更に、機関車・貨車なども、五フィート用のものが並び一朝事あれば直ぐに相手国に乗り入れ、又4フィート8インチの機関車は15分、貨車は5分間で車輪巾の変更が出来ると聞きました。しかし関東軍はその技術を一度も使うことなく終戦前に何処かに行ってしまいました。又これは全くの余談ですが、北朝鮮金総書記のモスクワ訪問の際も多分、この技術が使用されたと思います。綬芬河で聞きました今ひとつのお話はこうでした。
 「綬芬河の満ソ国境には鉄道の通った七個のトンネルがあり、中間、四個目のトンネルの中央が国境線で関東軍はソ連側では土嚢などで封鎖していると推測していましたある日、満鉄の保線区の係員数人がトロッコに乗って綬芬河駅に来て事務所で打ち合わせ中に、突然トロッコが自走し始め、ソ連の方向に坂を下り、国境のある第四トンネル内に姿を消しました。保線区の人たちは止むを得ず別のトロッコで基地に帰り、上司に報告、始末書提出処分となりました。その日から数日後の午後、突然第四トンネルの満州側の入り口に、ソ連の機関車が現れました。驚きながらもよく見ますと、機関車の前には暴走しソ連側に入ってしまいましたトロッコを車前に押していました。そして駅の中ほどまで来て停車、トロッコを切り離して何事もなかった様に逆走してソ連側に戻って行きました。この事件から、第四トンネルはソ連側により埋められていると言う推測は誤りで通行可能に繋がっていることが判り、関東軍は満鉄に感謝状を送ったということで、始末書と感謝状が入り混じり、何とも変なことになったそうです。
 以上、いろいろの事項を紹介しましたがこれらの項目がなぜ大塚兄の項の中で紹介されるのか不審に思われます方もおられるのではと推察しています。実は上述の各項は大塚兄が満鉄病院のレントゲン装置メンテナンス中、わずか二ヶ月の間に体験し、見聞きされた事項であります。このように種々の複雑な中でも兄は終始熱心に作業を進められ、どんなに多忙でも毎日の作業日報は欠かされませんでした。そして総てが完了後、満鉄本社の関係部門に報告、島津奉天出張所に完了報告後、「自分は来た時には船で着たので帰りは陸路にしたい。」と希望され朝鮮半島縦断で帰国されました。当時の満州は戦時中のため、満州全土は東京と同時刻となっていました。その上、今回の作業地は高緯度の地が多く、時期が真夏のため、昼が長く夜が短く、不慣れな人は体調を崩されることが多かったのですが、さすが、「大きな男のオンチャン」の歌詞通りタフで弱音は全然聞こえませんでした。又満鉄電気段からの人達ともよく和合され、満鉄側の人達も京大出身を知り一目置いておられました。余談ですが、満鉄病院ではその院長、各科の医長クラスには京大出が圧倒的に多く、次は九大でした。大塚重遠兄の項はこれで終わりと致します。

 それから先月のマリア・コイノニアを見られた越後幸恵さんは「藤村俊一は私の親戚です」、と言われました。藤村俊一さんがロシア語に堪能だったように、幸恵さんは聖霊降臨日にロシア語で福音書を朗読なさいました。藤村ご夫妻にはお子様がなかったので養子をむかえられたのだそうです。越後光子さん、幸恵さんも実相院近くの岩倉にお住いです。
(立石昭三)


投稿
マリア教会とともに

神学生 パウロ 井上進次

 京都聖マリア教会に実習となり二ヵ月余り。主日の午前中に礼拝が五回(時に六回)、聖書研究も毎週あって、気が付けば一日中教会にいるといった状況で、振り返ると指導司祭の藤原先生の勢いに何とかついていってるという感じがします。
 神学館に入っての運動不足は否めませんが、元々私は体力には自信があり、若い時はアルプスの三千b級高峰を縦走しておりました。
 そんな私が青少年キャンプを通じて、教会の日曜学校と関わるようになったのは二十年ほど前のことです。以来、知らぬ間に教会学校の校長となり、教会委員になり、土日は教会の仕事をするようになりました。
 本職の方は鉄道会社勤務だったのですが、入社以来経理・株式・法務・秘書・企画と、幸か
不幸か管理部門ばかり歩んできましたので、比較的土日は自由でした。鉄道の現業や関係会社のホテルやゴルフ場に出向していたら、今皆さんとお会いしていなかったのではないかと思います。
 ウイリアムス神学館では神学すること、つまり聖書にきちんと向き合って勉強し、毎日朝昼夜と礼拝する、また家を離れて生活した経験がない私にとっての寮生活は、本当に初めての経験ばかりでした。
そして一、二年の時の教会実習では、指導司祭、信徒の皆様から本当に多くを学びました。
 私がこれまでの人生で経験したことはほんの僅かですが、藤原司祭のご指導の下、マリア教会の皆様の何かしらお役に立てればと考えております。三月までよろしくお願いします。


6月号次ページへ