月報「コイノニア」
2009年5月号 No.309


《聖書を飛び出したイエス様・その六》
       せつなさと笑い

NHK教育テレビ番組「おじゃる丸」から

司祭 ミカエル 藤原健久

 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。…だから、明日の事まで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。            (マタイ6・25-34)


 子供が生まれてから、NHK教育テレビを観る機会が増えました。「お母さんといっしょ」などの子供向け番組です。私が子供の頃から続いている番組もあり、懐かしい思いもあって、楽しく見ています。最近の番組は、随分とレベルが上がったように思います。技術面だけでなく、番組を作るセンスや、題材の取り上げ方が、とても面白いのです。中には、国際的なコンクールで高い評価を得たものもあります。子供よりも大人の方が楽しんでいるのではないか、と思える番組もあります。きっと、子供は子供なりに、大人も大人なりに楽しんでいるのでしょう。
 このレベルの高さは、「お笑い」の分野にも及んでいます。「おじゃる丸」は毎日夕方に放送している、10分ほどの小番組です。平安時代から現代にやって来た、平安貴族のような男の子と、彼を巡る人々が織りなす「お笑い」のアニメです。この笑いのセンスが、何とも面白いのです。特に飛び抜けておかしな、変わった人は出てきません。みんな、穏やかで、心優しい人々ばかりです。けれども、その人がそこにいるだけで、つい笑ってしまうような、何とも言えない可笑しさがあるのです。小石を集めて語り掛ける少年、変な発明ばかりする紳士、いざとなったら「コーヒー仮面」に変身して、地域社会のために奉仕活動をする喫茶店のマスター、描く絵が全て恐怖マンガになってしまう少女マンガ家、神社再興のためお賽銭集めに奔走する狛犬兄弟、歌声のきれいな貧乏神、強くなれない子鬼たちなどなど。人間でないキャラクターもたくさんいますが、おかしな人々が集まって、彼らにとっては真面目で一生懸命な、見ている私たちにとってはおかしくて仕方がない、日々のエピソードが繰り広げられるのです。
 原案は犬丸りんと言う人なのですが、この人は小説も書かれます。先日ある方から文庫本を借りました。読んでみますと、面白い面白い!「おじゃる丸」での可笑しさが、ぎゅっと凝縮して詰まっているようなおもしろさです。面白いだけじゃなくて、少し切なさも感じられるような作品でした。時に腹を抱えて笑い、時には涙する、そんな本でした。
 これらの可笑しさは、「普通の人が持っている可笑しさ」のように思います。私たちはみんな、「どこにでもいる普通の人」と思いながら、それぞれ一人一人違う存在です。みんな真面目に日々を過ごしながら、どこかにおかしな所を持っているものです。それを強調して描いているのがこれらの作品であるように思うのです。
 私が感じた切なさと可笑しさ、これらは人間の本質から出ているように思います。切なさは、人間がやがては死ななければならない存在である、と言うところから来るように思います。つまりは人間のはかなさから切なさが生まれるのです。可笑しさは、それでも人間は日々生きていかなければならない、と言うところから来るように思います。つまりは、人間の生命感から可笑しさは生まれるのです。視聴者や読者の中には、切なさが好きという人も、可笑しさが好きという人もおられるでしょう。切なさと可笑しさの、両方あってこそ、作品は素晴らしいものになります。どちらが良いという問題ではありません。けれども、キリスト教的価値観から言うなら、はかなさよりも、生命感が優先されるように思います。どのような作品に接しても、切なさの中に可笑しさを見いだし、また切なさを覆い包むような可笑しさを見いだしたいと思います。
 人間は神様によって造られた、価値のある存在です。イエス様は人間という存在を無条件に肯定し、愛されました。イエス様はきっと、様々な人々に接し、様々な人間模様に出会い、時には切なさにほろりと涙しながら、けれども時にはガハハと笑って、最後には「神様は私たちをこの上なく愛してくださっているよ」と宣べ伝えられたのでしょう。


第二回
「これからの教会を考える『話し合い』

 5月17日(日)の昼食後、教会会館ホールで第2回「これからの教会を考える『話し合い』」が行われました。第一回「話し合い」で出た意見(マリアコイノニア3月号掲載)について、4月と5月の2回の教会委員会で熱心に協議を重ねました。その結果、2回目は「礼拝」について話し合うこことし、以下の二つのテーマを選びました。@礼拝と子供―教会によりたくさんの子供を招く方策について―、A分かりやすい礼拝―分かりやすい礼拝とはどのようなイメージでしょうか―、です。
 今回は、全体を二つのグループに分けて、グループごとに別々のテーマについて、話し合っていただきました。当日は参加された方が少なめでしたが、その一方、多くの意見が述べられ、丁寧な、深まりのある話し合いができました。
 次回の「話し合い」は、7月の第3主日、昼食後の予定です。多くの皆様のご参加を期待します。

◎「話し合い」で出た主な意見(順不同)
テーマ@礼拝と子供
―教会によりたくさんの子供を招く方策について―
*無理に大人の礼拝に参加させなくても、「陪餐」の時に祝福を受ける習慣を付けていれば、成長すると共に自然に教会への関心が出てくるのではないか。
 ただ、礼拝の様子が子供たちにもっとよく聞こえるように工夫して欲しい。
*以前に、子供を大人の礼拝に参加させる試みをしたが、失敗した。
 逆に、大人が子供の礼拝(陪餐なし)に参加してみてはどうか。
*広島市のルーテル派の教会の礼拝に出席した時の感想。
 子供と大人が同時間帯に説教(聖書のお話し)があるのが良かった。始めに子供が前に来て短時間の説教(お話し)があり(終われば子供は退場)、続いて大人への説教があった。
*礼拝堂の中に子供がいることが望ましいのではないか。以前の礼拝堂は礼拝堂の後ろの方に本棚があり、子供たちと大人が同じ空間を共有できた。「礼拝」ということと、静かに礼拝に臨むことが子供達に教育できる。
*子供が礼拝に同席することに対して、「賛成する」意見と「望ましくない」とする意見が相半ばしていた。
テーマA分かりやすい礼拝
―分かりやすい礼拝とはどのようなイメージでしょうか―
*何を以って「分かりやすい礼拝」というのか。魅力ある礼拝、出席し易い礼拝ということか。
*礼拝は祈祷書によって進められるので、礼拝自体は変えられない。祈祷書が完備しているので、礼拝が形式的に流れてはいけない。雰囲気的なもので変えられるところはないのか。
*主日の礼拝全体(報告も入れて)で考えてみることが大事である。帰る時に、「皆で礼拝したなあー」という実感の持てること(余韻の良いこと)が大事である。
*マリア教会は聖歌の数も多く、音楽に親しみのある教会というイメージがある。
*第5主日のマリアミサはなじめない。音楽に合わせることに気をとられて礼拝に集中できない。(文語祈祷書を懐かしむ方もいるので、年四回程度なら良いのではないかとの意見もあり。)
*大きな合同礼拝ではなく、近くの陪餐人数の少ない二〜三の教会をマリア教会の主日礼拝にお誘いしてはどうか。また、こちらから出掛けていってはどうか。(例えば一〇人程度)。来年度の事業計画に入れてはどうか。
*6月の伝道区合同礼拝に陪餐された方は、「分かりやすい礼拝」について多くのことを感じられるのではないか。
*週報に礼拝式順序を載せることを復活してはどうか。
マリア教会には、ほぼ毎主日に初めての方が見える。初めての方も視野に入れた週報を作成するべきである。初めての方にとって、礼拝の進行が分かり易いことは、とても大事である。礼拝(教会)の初印象が大切である。「何回か来ればその内に分かる」では、初めての方に失礼ではないか。また礼拝の順序が分かることは、教会員にとってもありがたい。聖歌を歌う箇所のみの表示ではやはり不親切である。説教概略の文字フォントを小さくして、スペースを捻出できないものか。
*陪餐で前に出ることが困難な方や体調により長時間立っていることが辛い方への配慮が必要である。最前列に専用席を定めてはどうか。
        (野本記)


投稿
お世話になります。

京都教区神学生(二年生)
ヤコブ 岩田光正

 京都聖マリア教会にはまだ一カ月足らずの勤務ですが、大きな教会で礼拝の出席者が多い、でもそれだけでない、活気にあふれ、明るく親しみやすい雰囲気がある、これが第一印象です。そして毎主日、礼拝後みんなで「うどん」を一緒に食べること、これがとても素晴らしい時間です。  ところで、私は、学生と言っても、二人の娘を持つ四四歳のオヤジです。(家族は三重県の津で暮らしています。)吸収力の悪くなったオヤジの脳みそを使い、毎日「神学」と苦闘しています。これまでの自分を簡単に紹介させて頂きます。入学するまでの二〇年間は、名古屋本社の民間ラジオ局で主に営業畑の仕事をしてきました。絵に描いたようなサラリーマン生活だったと思います。津聖ヤコブ教会が出身教会です。11年前、長女が津聖ヤコブ幼稚園にお世話になったのがきっかけで、教会に足を運びました。2000年の夏、次女が生まれた直後、私自身重大な病気を患いました、しかし、その時、神様に真剣に向き合う時間も与えられました。それを境に毎週のように教会に通い始め、その年のクリスマスには、家族四人で受洗しました。実は、自分の人生の中で教会の礼拝に参加することは皆無でした。家族、親戚は勿論、周りのどこを探してもキリスト者はいません。キリストの香りとは全く無縁の世界で生きて来たのです。今でもふと感じます。何と不思議な導きなのだろうかと。神学校への決意を固めたのは二年前です。大反対だった妻も譲らない私に最後は諦めの境地とでもいうのでしょうか、「自分で決めな」と言ってくれました。この言葉は今でも鮮明に覚えています・・・。そして、今の自分がいます。
 実習を通じ、沢山の素晴らしい交わりを作りたいと思います。一年間、どうか宜しくお願い致します。


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