月報「コイノニア」
2010年11月号 No.327


《聖書を飛び出したイエス様・その24》
  マネージャーはイエス様

岩崎夏海「もし高校野球の女子マネージャーが
   ドラッカーの『マネジメント』を読んだら」から

司祭 ミカエル 藤原健久

二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである。(マタイ18・20)

 元気一杯の女の子が、高校野球の女子マネージャーになり、チームを甲子園に出場させようと奮闘する、青春小説です。表紙のイラストも可愛らしいのですが、何やら通常の青春物と考えると違和感を覚えるのが、「ドラッカーの『マネジメント』」の文字です。これは、数十年前に書かれた、経営に関する書物です。主人公が、「マネージャー」の意味を学ぼうと、本屋さんに行って買ってきたのが、この本だった、というお話しなのです。ここには、「マネージャー」というものの、日本と欧米圏での捉え方の違いが背景にあります。日本では、運動部や芸能人のお世話役、下働き的なイメージですが、欧米では、野球の監督や会社の社長など、経営に責任を持つ人のことを指します。主人公は、「マネージャー」の意味を勘違いして本を買い、けれどもその本を深く学ぶことで、結果として成功していった、というお話しなのです。
 作者は、人気のアイドルグループAKB48のプロデュースも手がけた人です。プロデューサーとは、正に組織運営の中心になって働く人です。彼は組織について悩んでいるときに『マネジメント』に出会い、この本の内容を分かりやすく伝えるために、この小説を書いたとのことです。
 組織運営には、並々ならぬ苦労が伴います。人間は一人では生きていけません。けれども、人が集まり組織を作ると、様々な課題が生まれます。理念、成果、評価、人事…、それらを取り仕切るマネージャーの苦労は、大変なものでしょう。これは決して、ビジネスの世界だけのお話しではありません。人が「二人または三人」集まった時点で、それはもう組織であり、組織運営の苦労が始まるのです。組織にはとりまとめる人が必要です。けれども、みんなが素直に従うわけではありません。組織が大きくなると、様々な意見が出てくるし、またマネージャーの指示や意図も届きにくくなったりします。
 みんな、誰もが、大なり小なり、このような苦労を経験しています。イエス様も苦労されました。イエス様の弟子たちも、決してまとめやすい集団ではありませんでした。イエス様の意図を曲解したり、仲間内でケンカしたり、自分の利益ばかりを求めたり…。イエス様は折々に注意し、指示を与え、教えを掟にまとめたりしました。それでも、弟子たちをまとめる「特効薬」はありませんでした。ただひたすらイエス様は誠実に弟子たちに向き合い、真摯に対応されました。それはイエス様を十字架へと導く裏切りに際してさえ、変わることがありませんでした。
 マネージャーとして奮闘しておられる方の中には、孤独に苦しむ方もおられることでしょう。「自分ががんばらなければ」の思いで自分を奮い立たせておられることと思います。イエス様は「二人または三人がわたしの名によって集まる所には、わたしもその中にいるのである」と言われました。組織運営を、全くの私利私欲のためではなく、少しでもみんなの幸せのため、世界の平和のためにと思って行うのであれば、きっと、そこにはイエス様が一緒にいてくださいます。私達の上には、私達をとりまとめてくださる大マネージャー、イエス様がおられます。時にはイエス様に、心の重荷をお任せしても良いと思います。


「婦人会秋の修養会報告
 ―バイブル・シェアリング体験記」

立石恭子

 殊更に暑かった夏が過ぎ、いつの間にか辺りが秋色に彩られてきた10月12日、当教会で京都伝道区婦人会の秋の修養会を開催いたしました。今年の当番である京都聖マリア教会婦人会が主催したのですが藤原司祭には、企画の段階からすっかりお世話になりましたし、開会が二時だったため園児のお帰りの時間と重なったりした事もあり、菅原先生はじめ園の先生方にも何かとお心遣い戴きました。会員の皆様には準備はもとより当日の役割を各々に見事にこなしていただき感激しました。また連休明けで何かとお忙しい中、多数出席して下さったことも感謝です。定刻どおりに開会。まず藤原司祭司式による黙想と祈りの集いが行われ、平和に向けて一同、思いをひとつにする事が出来ました。繰り返し唱われる答唱の歌詞(後記)は、それだけでも心に響くものがあるのですが、懐かしい感じのメロディーと相まって回を重ねる毎にあたたかさが胸に拡がってゆくように感じられました。聖書朗読;山岡怜子姉、代祷;佐藤紀子姉、吉村由理姉、松本華子姉、献金:越後光子姉。15分の休憩の後、会場をホールに移し、「楽しいバイブル・シェアリング」の時間が始まりました。教区宣教局礼拝部のお二人に担当していただきましたがはじめに池本則子司祭(桑名エピファニー教会)が総論を話され、引き続き井田涼子姉(京都聖三一教会)の御指導のもと、これを実践するという流れでした。池本司祭が開口一番「バイブル・シェアリングは聖書を学ぶものではありません。聖書を楽しむものです。」と言われたのは印象的でした。日本語に訳すと「聖書の分かち合い」。み言葉をじっくり読んだあと、一人ひとりがどう感じたかを伝え合い、聴き合う。み言葉の解釈について思うままに話してみる。これらにより、自他共に新たな気付きを得る事が出来る。ひいては聖書をより身近に感じる事が出来るようになるでしょう。
 参加者の心得としては教えてもらうと云う受身の姿勢ではなく、主体的に自ら考える事。従ってその場に聖職者がいない方が自由な発言ができるかもしれません。でも発言は強制されるものでなく言いたい事がなければパスしてもかまいません。大事なことはイエス・キリストが共に在るお互いを信頼し合うこと。そして話の内容がプライバシーに関するものであった場合に秘密をしっかり守ることです。これらの事を心に留めつつ愈々実践です。テキストとしてルカによる福音書18;1〜8aが指定されました。バイブル・シェアリングに適する人数は3〜10名ですが当日は出席人数(44名)に合わせて7〜8名の六グループに分かれました。各グループに司会者(進行係り)が一名ずつ。「これはマリアで引き受けてください」とあらかじめ井田姉より依頼されていましたので若い方々を中心にお願いしスムースに運ぶことが出来ました。その役割は,時間を、集中できる長さの30〜40分間と決めた上で、皆が安心して話せるように場を作ることです。牧師や先生ではないので質問に答えなくてもいいし結論を出す必要もない。進め方には大よそのマニュアルがあります。
@声に出して読む。(全員で輪読してもよい)A各自が黙読する。(最も大切な時間)Bみんなで分かち合う。(みんなの思いに耳を傾ける)
テキストは聖書のどの箇所でもよいのですが今回のように次回主日日課の福音書から選ぶのは的を得ているように思いました。この中には"神を畏れず人を人とも思わない"と云うとんでもない裁判官としつっこい哀れなやもめが登場するのですが、そこからみ言葉の真意を掴むことは極めて難解であるように私には感じられましたが、「場」作りがうまく行われて発言も活発であったため結論は出ないまでもおぼろげな輪郭は掴めたように思いました。そして恐らく正解を示唆して下さるであろう日曜日のお説教を早く聴きたいという気持ちに駆られたのです! 各グループの司会者や、また全体の進行を手際よくすすめてくださった吉川まゆみ姉のお陰で予定の四時には祝祷、頌栄を以って閉会する事が出来ました。
 正直なところ初体験では、聖書を楽しむと云う境地には至りませんでしたが、受身に終始せず主体性を以って参加するというバイブル・シェアリングの主旨に近づけたせいか、ある種の充実感に満たされたのは事実です。これからも婦人会の中だけでなく巾広いメンバーでトライしてみたら如何でしょうか?いつの日か、聖書を楽しんでいる自分に気付くかもしれません。
答唱;見よ兄弟が共に座っている、なんという恵み、何という喜び。
各グループ司会者;野嶋敦代姉、越後光子姉、吉村由理姉、久保優里姉、吉川まゆみ姉、松本華子姉。



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