1月号 その2


礼拝堂建築委員会より

礼拝堂建築のために
設計事務所の推薦を

新しい礼拝堂を建築するために、まもなく設計事務所を選ぶ段階に入っています。みなさんのお知り合いで、左記の条件に合う設計事務所をご紹介してくださる方があればお申し出ください。
○独立した設計事務所であること。
○教会建築の経験があること。
○担当者がキリスト教に深い理解を持っていること。
○採用された場合、何度も来ていただいて、話し合い、打ち合わせが可能なこと。
1998年1月18日までに、できれば作品集、経歴書など資料を添えて、建築委員長までご紹介ください。


礼拝堂と私

マルコ 野本 武

 少しばかり時間を頂きまして、「私にとっての礼拝堂」それから「京都聖マリア教会の礼拝堂建築」という二つのことについて、少々述べさせていただきます。
 教会の礼拝堂に初めて近づきましたのは、高校の時でした。高校はカソリックのドミニコ会が経営する学校でありまして、宗教活動は強制されませんでしたが、神父さん方がたくさんおられる厳しい学校でした。校内の一角に聖堂がありまして、腕白な生徒達でもそこは何かしら大切なところ、その周辺には余り近寄れないような、大きい声で話すのも何か躊躇するような雰囲気、気持ちの中で過ごしたものでした。
 さて、「貴方にとっての礼拝堂とは」と聞かれますと、教義にそったお答えは別にして、誰しもその返事は異なっていると思っております。その方の仕事、家庭、地域社会等における経験、あるいは教会生活の在り方等において異なったものとなってくるものでしよう。では、私にとりまして、「礼拝堂とは」と聞かれますと、「それは自分の良心(良い心)と向い合えるところ」と認識しております。月に一回か二回しか聖餐には出席できておりませんが、跪座して主に向かうとき、自分の良心を振り返ることができる。過ぎ越しし方を省みて、明日に向かって正しく生きて行くことができる。そういった気持ちになれるのです。私どもは、平穏な人生を送っているようでありながら、心の中には、何か屈託が残るような、ストレスが溜まりて行くような、時には辛く苦しいことのある日々をおくっています。この、不景気な、限りなく不透明な、先行き不安定な世情にあって、心の中は否応無しに、安らぎを欠く状況に追い遣られることになるかも知れません。そういった時代に、自分を見つめ、良心を見つめ、勇気づけられるところは、さらに心の中に重さを増してくるのではないでしょうか。
 次に、聖マリア教会の礼拝堂ですが、以前に教会ツアーに参加して、幾つかの礼拝堂を見学させていただく機会がありました。その時の一番強い印象は、何処の礼拝堂も本当にそこの教会にふさわしいものだな、ということでした。私も、聖マリア教会の礼拝堂について、自分なりの思い、意見、注文等が無いわけでもありません。しかし、それを申し上げてしまいますと、今度はそれへのこだわり(自分の意見へのこだわり)が自分自身の中に生じてくると思うのです。今の世の中は、自分の意見を述べることは活発で、容易なことでもあります。その反面、他に「お任せする」、「委ねる」といった面においては、一歩後退している面があるのではないかと思っております。教会には建築委員会と募金委員会が置かれて、随分と長い間検討されてきました。その長い間に、私達のもろもろの思いは、有形無形の形を取りながら、委員会の方に伝わっているのではないでしようか。私は、二つの委員会に全てのことを委ねたく思っております。委員の方々にとっては、本当に大変で、辛いこともあろうかと思いますが、そこで決められて行くことを、喜びを持って信任して行きたいと考えております。よろしくお願い申し上げる次第です。
(去る11月23日、主日礼拝においてアピールして頂いた原稿を掲載させていただきました。)


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