暗誦するにふさわしい聖書のことば 

第1集(2002.4.7〜2002.10.20)

 
評判の「声を出して読みたい日本語」(草思社)の著者、斎藤孝氏は、「今、暗誦文化は絶滅の危機に瀕している」と述べておられる。全く同感である。
聖書の言葉はもともと声を出して読まれてきたものである。そこで、聖書の中から「暗誦するのにふさわしい言葉」を紹介したい。ぜひ、声を出して読み、暗誦してもらいたい。必ず大きな恵みが与えられるであろう。
取り上げられている聖書の言葉は、西大和聖ペテロ教会の週報に書き記したもので、あるときは思いつきで、あるときは身の回りで起こったことや社会の出来事から思い起こした聖句など、順序や内容は一貫していない
週報に掲載したときは文語訳聖書、口語訳聖書から、時には新共同訳など、そのことばが暗誦するにふさわしいか、どうかという基準で選んだ。今回まとめるにあたって、見出しの言葉は文語訳聖書(現代かな遣い版)を用いたが、「エホバ」という言葉は「主」あるいは「ヤーウェ」に改めた。「ふりがな」は美観上省いた。また、元の意味と格調を失わない程度に、難字、送りがな等を改め、また句読点等を適宜付加した。(国語学者から見たら変なことになっているかもしれない。)お気付きの方は、ぜひ教えていただきたい。
 
 
001  
元始に神天地を創造りたまえり。地は定形なく空虚くして、黒暗淵の面にあり。神の霊、水の面を覆いたりき。 (創世記1:1,2)
 
最初の言葉は、何んてたってこれしかない。これが聖書全巻の根本宣言である。全てのものには始めがあり、終わりがある。誰も始めを知らないし、終わりも知らない。だから、これは科学的に証明できることではない。ただ、宣言するだけで十分である。(2002.4.7)
 
002  
われは福音
を恥とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシヤ人にも、全て信ずる者に救いを得さする神の力たればなり。  (ロマ書1:16)
 
創世記第1章1節が聖書全体の根本宣言であるとしたら、教会が世界に向かって語る「第一宣言」がこれである。使徒パウロは、世界宣教の拠点を当時の世界の中心都市ローマと定め、そこに向かって長い旅を始めた。まずは、ローマの信徒たちに(当時はごく小さな集団であった)この言葉を送り、彼自身の意気込みを伝えた。
今は小さな群れにすぎないかもしれないが、「この福音=神の力」は、やがて全世界を覆うであろう。(2002.4.14)
 
003  
人の生
くるはパンのみによるにあらず、神の口よりいづる全ての言による。 (マタイ4:4)
 
これは主イエスが荒野で悪魔から試みをお受けになったときの主イエスの返答であり、申命記8章3節の引用。
申命記の文脈では、エジプトを脱出したイスラエルの民が砂漠で食料がなくなって飢死にしそうになったとき、「天からのパン=マナ」が与えられた。このマナについて、神がマナをお与えになった理由として「人はパンのみによって生きるのではない」ということをわからせるためなのだ、という意味で用いられている。つまり、「日ごとの糧」も、「神から出ている」ことを分からせる言葉である。(2002.4.21)
 
004  
主はわが牧者
なり。われ乏しきことあらじ。主は我をみどりの野にふさせ、憩いの水濱(みぎわ)に伴いたもう。主はわが霊魂をいかし御名のゆえをもて我を正しき道に導きたもう。 (詩編23:1〜3)
 
神に守られ、導かれる信仰生活の極致を歌う言葉。できたらこの詩編を全部暗唱したいものである。長い人生の中、必ずこの言葉によって窮地を脱出することは、すでに多くの信仰者によって保障済み。この言葉は「我は善き牧者なり、善き牧者は羊のために生命を捨つ」(ヨハネ10:11)という主イエスの言葉と呼応している。 
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。(2002.4.28)
 
主はわが牧者なり。我は乏しきことなからん。
主は我をみどりの野に伏さしめ、憩いの水濱に伴いたもう。
主はわが霊魂を生かし、御名のために正しき道に導きたもう。
たといわれ死の陰の谷を歩むとも災いをおそれじ。
なんじ我とともにいまし、なんじの鞭、なんじの杖、われを慰む。
汝わが仇の前にわが為に宴を設け、わが杯は溢るるなり。
わが世にあらん限り、恵みと憐れみとは必ず我に添い来たらん。
我はとこしえに主の宮の内に住まわん。
(詩編第23篇 日本聖公会祈祷書1959年改訂版)
 
005  
聖言うちひらくれば光をはなちて愚
かなるものをさとからしむ。 (詩編119:130)
 
本当の賢さとは何だろう。必ずしも、勉強ができることでもないし、試験の成績が良いことでもない。
人の愛、弱さ、愚かさが「分かる」ということであろう。この「分かる」ということが賢さである。
この「分かる」に到達するためには、自分の心を偽っていては不可能である。素直な心にのみ、聖書の言葉は光をはなつ。(2002.5.5)
 
006  
求めよ、さらば与えられん。尋
ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり。 (マタイ7:7,8)
 
最近は指示待ちの若者が多いときく。確かに、自分の方から積極的に何かを求め、何かをしようという姿勢は希薄になっている。重要なことは、今、何かが出来ることではなく、また、何かを持っていることでもない。自分が何をしたいのか、何になりたいのか、何が欠けているのかということを自覚し、求めることである。(2002.5.12)
 
007  
その容貌
と身長を観るなかれ。我すでにかれを棄てたり。わが視るところは人に異なり、人は外の貌を見、主は心を見るなり。 (サムエル記上16:7)
 
高学歴、高収入、高級車、有名ブランド商品等によって、あたかもその人が「高級」であるかのように錯覚する。しかし、その人の価値は心で決まる。少年ダビデが王に選出されたとき、彼には人の目を惹くようなセールスポイントはなかった、と思われる。しかし、神は彼の心を見て、彼を王に指名された。心は心によって見る。美しい心は美しい心が見えるし、邪心は邪推を生む。人間の悲劇は美しい心の持ち主が常に少数であることだ。京都教区の教役者修養会において「主教の権威について」と題する発題の準備の中でこの言葉に目がとまった。(2002.5.19)
 
008  
なんじら世にありては患難
あり、されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり。 (ヨハネ16:33)
 
この世の権力者たちの妬みや憎しみ、この世の人々の誤解や無知によって、捕らえられ、死刑に処せられる直前、主イエスは逃げ隠れすることなく、堂々とローマ兵の前に姿を現し、自ら逮捕された。その直前、弟子たちに語られた最後のメッセージ。「我すでに世に勝てり」という勝利宣言は、イエスの歩まれた道に従う者、すべてに対する「勝利」の保証でもある。(2002.5.26)
 
009  
義は国を高
くし、罪は民を辱しむ。 (箴言14:34)
 
今、この言葉の重さをしみじみと思う。他国のことはともかく、日本の現状は目に余る。「正義」とは、政敵を追い込む理屈に堕し、罪から恥の観念はまったく失われてしまっている。ルース・ベネディクトは、「菊と刀」で日本人は罪の観念は希薄であるが恥の観念が強い、と論じているが、その恥の観念さえ失われてしまっている。
この箇所を新共同訳では「慈善は国を高め、罪は民の恥となる」となっている。「恥」とは自分の心の中で「恥ずかしい」と思うことであるが、「辱」とは外部から「見下げられる」ことである。(2002.6.2)
 
010  
汝の父母
を敬え。 (出エジプト記20:12)
 
父母を敬うということができるようになって、初めて人間になる。主体性は父母を尊敬の対象として意識し始めたときから、芽生える。それまで胸にあるいは腕に抱かれてきた幼子が、父母と向い合う。ところが、多くの人は親に反抗することによって主体的になれると思っている。とんでもないことだ。親への反抗は甘えの裏返しにすぎない。(2002.6.9)
 
011  
き門より入れ、滅びに至る門は大きく、その路は廣く、これより入る者おおし。 (マタイ7:13)
 
楽をして多くを得ようとするのは人間の常である。しかし、若いときの苦労は買ってでもせよ、という格言は生きている。真実への道は、人の目には隠されている。安易な人生を望む者には、真の喜びは来ない。
サッカーのゴールは広い。しかし、ゴールされるボールはまれである。ゴールにはゴールキーパーが仁王のように立ちはだかり、ゴール前では敵味方がひしめき、ゴールボールを阻止している。その隙間に細いルートを見出し、そこに蹴り込みゴールするのは至難の業である。日頃の訓練がものを言う。「ニッポン・チャ・チャ・チャ」(2002.6.16)
 
012  
すべて祈りて願う事は、すでに得
たりと信ぜよ、さらば得べし。 (マルコ11:24)
 
この言葉を自然科学的真理と混同してはならない。祈りが聞かれる、ということは経験した者にしか分からない真理である。「山を動かす信仰(祈り)」とは、なぜ山を動かして欲しいのかということについての、神との格闘である。この格闘に耐え得る人は稀であり、この格闘に最後まで耐え抜いたときに確かに山は動く。(2002.6.23)
 
013  
おさなごらの我に来たるを許せ、止
どむな、神の国はかくのごとき者の国なり。 (マルコ10:14)
 
主イエスに触れていただくために、人々が子どもを連れてきた。しかし、弟子たちはこの人々を叱った。主イエスはこれを見て、「憤り」弟子たちに言われた。主イエスは「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。」
主イエスが憤られた。それも弟子たちに対して。しかし、主イエスから叱られた弟子たちは幸いである。(2002.6.30)
 
014  
すべて労
する者・重荷を負う者、われに来たれ、われ汝らを休ません。(マタイ11:28)
 
今年はサッカーのワールドカップが韓国と日本の共同主催ということで開催され、たくさんのにわかファンが生まれた。わたしもその一人。サッカーの試合を見ていて、苦労して苦労して、やっとゴール直前まで持ってきたボールがポールに当たって弾き飛ばされるのを見ていると、人生とはサッカーゲームのようなものだと思わされる。失敗の繰り返しの中で、偶然のように得点される。その喜びは飛び跳ねるに値する。(2003.7.7)
 
015  
天より雨くだり、雪おちて、復
かえらず。地を潤して物を生えしめ、萌をいださしめて、播く者に種を与え、食う者に糧を与う。 (イザヤ55:10)
 
今年の梅雨は雨が降らず、水源は危機的状況である。園児たちが楽しみにしているプール遊びも制限されてしまった。当てにしていた台風も各地に大きな被害を与えたのに、肝心のダムには少しの水しか残さなかった。(20027.14)
 
016  
神はわれらの避所
また力なり。悩めるときのいとちかき助けなり。 (詩編46:1)
 
これには次の言葉が続く。「さらばたとい地はかわり、山は海の中央にうつるとも我らはおそれじ。」
これに似た詩編では第59編9節「わが力よ、われなんじを待ち望まん。神はわが高き櫓なり」がある。これこそ信仰の歌である。この詩編を聖歌に書き直したのが聖歌386番。これとは別に宗教改革者マルチン・ルターの作詞によるのが聖歌389番。
(2002.7.21)
 
017  
我らは如何
に祈るべきかを知らざれども、御霊みづから言い難き嘆きをもて執成したもう。 (ロマ書8:26)
 
神に祈るということは凡人には許されない行為である。むしろ、祈りは「神に近い誰か」に頼んで祈ってもらうべきものなのだろう。主イエスの最大のメッセージは、「あなたも、祈ってもいいのだよ」ということにあったように思う。そう言われてもなお、簡単には祈れない。わたしたちは祈る言葉を知らない。それほど神と親しい関係にはない。使徒パウロでさえそういう。そこで登場するのが聖霊の働きである。御霊はわたしたちのおぼつかない祈りを、整え、神へ仲介してくださる。(2002.7.28)
 
018  
昼は雲の柱その上を離
れずしてこれを途に導き、夜は火の柱離れずしてこれを照らし、その行くべき路を示したりき。 (ネヘミヤ記9:19)
 
「カーナビ」がかなり普及している。まだ使ったことはないが、知らない土地に出かける場合非常に便利だという。地図と音声で導いてくれる。人生の「カーナビ」があったらどんなに便利だろう、と思う。しかし、カーナビに導かれた人生は既に誰かによって調査済のもので、「わたしの人生」ではない。
神に与えられた「わたしの人生」は、神によって導かれるほかない。(2002.8.4)
 
 
019  
かなる者は心のうちに神なしと言えり。 (詩編53:1)
 
ここで言う「心のうちに」とは「本音」とか「本心」という意味であろう。最近の若者言葉に「マジ」と「ホント」という言い方がある。だいたいは後部を軽く上げるような調子で、付加疑問詞のように発音する。横で聞いていると、どこまでが本心でどこまでが冗談なのか、その分岐点が明白ではない。聞く方もそれほど真剣ではなく、応える方も深刻ではないらしい。
「神なし」という信念も、「神あり」という信仰も、「心のうちに」という究極さにおいて、同一化する。神について心の底から「ある」とか「ない」ということのできる心の深みを知っている者は、到底「神なし」などとは言えない。
神を知らぬ者は言う、「神などない」と。(新共同訳)(2002.8.11)
 
020  
が身を神のよろこびたもう潔き活ける供物として献げよ。これ霊の祭なり。 (ロマ書12:1)
    
信仰生活は日毎の当たり前の生活の中でこそ生きてくる。(2002.8.18)
 
021  
主よ、この罪を彼らに負
わせたもうな。 (使徒言行録7:60)
 
これはキリスト教史における最初の殉教者聖ステパノの最後の言葉である。聖ステパノは迫害する人々が自分に向けて石を投げつけている間、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と祈り、ひざまずいて、大声でこの言葉を叫び、眠りについた。これこそ、キリストにある者、特に聖職と呼ばれる人間の死に方であり、同時に生き方である。この聖ステパノの姿を見て、迫害者パウロは改心し、キリスト教の聖職者となった。いざという日のために、ぜひこの言葉を覚えておきましょう。
ステパノ森島繁兄を偲んで    (2002.8.25)
 
022  
ぶ者と共によろこび、泣く者と共になけ。 (ロマ書12:15)
 
日常的な生活のレベルで生きている信仰、というものがあるとしたら(当然なければならないが)、それはこの言葉に尽きる。これは倫理でも、命令でも、また人生の目標としての格言でもない。ごく自然の、ごく当たり前の生きる姿である。むしろ、喜んでいる人を見たら妬み、悲しみ、泣く人を見たらホッとする自分を見て、かなり「ひねくれ」(不自然)ている、と思う。(2002.9.1)
 
023  
なんじらが砌出
されたる磐となんじらの掘出されたる穴とをおもい見よ。 (イザヤ書51:1)
 
夏が過ぎ、蝉の鳴声も静かになると、蝉が出てきた無数の穴が寂しさを強調する。あんなにけたたましく鳴き続けた蝉は、ここから出てきたのだと思うと不思議に思う。
そう言えば今年の夏、蝉の脱皮の瞬間を見た。出たての時は真っ白な羽根がみるみる茶褐色に染まっていくのも神秘的であった。(2002.9.8)
 
024  
汝らの若者は幻影
を見、なんじらの老人は夢を見るべし。 (使徒言行録2:17)
 
今の青年たちは幻(ヴィジョン)を見ているのだろうか。見ているとしたらどんな幻があるのだろうか。幻とは、そこに向かっていくエネルギーを生み出す希望である。この言葉を最初に語った預言者ヨエルの子孫、現在のパレスチナの若者にどんな幻があるのだろうか。今の老人たちはどんな夢を抱いているのだろうか。
老人たちにとって夢とは現在である。今、幸せであれば幸せな夢を見る。今、悲しければ悲しい夢を見る。老人たちにとって幸せな夢は、幻に向かって元気に前進する若者の姿から出てくる。(2002.9.15)
 
025  
まず、神の国と神の義とを求めよ。さらば、全
てこれらの物は汝らに加えらるべし。 (マタイ6:33)
 
古人曰く、「衣食足則知礼節(衣食足りて礼節を知る)」。本当だろうか。衣食に困っていない人ほど、物欲が増大し、恥も外聞もなく、物質主義に走っているのではなかろうか。聖書はその逆のことを語る。信仰と正義とを追求すれば、「これらの物」つまり衣食住の生活必需品は「おまけ」(付加物)として付いて来る。(2002.9.22)
 
026  
たとい、我もろもろの国人
の言葉、および御使いの言葉を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響くにょうはちのごとし。 (コリント人への前の手紙13:1)
 
「愛」という言葉ほど格調に幅のある言葉は少ない。人間としての最も高貴ある生き方から最も低俗な生き方までを含む。朗誦が最も威力を発揮するのには、一定の長さが重要である。コリントの手紙の第十三章の「愛の賛歌」はそのような文章の一つである。むかし、日本中の小学生が「教育勅語」を暗誦させられたように、この文章はぜひ暗誦させたい。(2002.9.29)
 
 
たとい、我もろもろの国人の言葉、および御使いの言葉を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響くにょうはちのごとし。たとい、われ預言する能力あり、又すべての奥義とすべての知識とに達し、また山を移すほどの大いなる信仰ありとも、愛なくば数うるに足らず。たとい、我わが財産をことごとく施し、又わが体を焼かるる為にわたすとも、愛なくば我に益なし。
愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、誇らず、驕ぶらず、非礼を行わず、己の利を求めず、憤おらず、人の悪を念わず、不義を喜ばずして、真理の喜ぶところを喜び、おおよそ事忍び、おおよそ事信じ、おおよそ事望み、おおよそ事耐うるなり。愛はいつまでも絶えることなし。されど預言は廃れ、異言は止み、知識もまた廃らん。
それ我らの知るところ全からず、我らの預言も全からず、全き者来らん時は全からぬもの廃らん。われ童子の時は語ることも童子の如く、論ずる事も童子の如くなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり。今われらは鏡をもて見るごとく見るところ朧なり。されど、かの時には顔を対せて相見ん。今わが知るところ全からず、されど、かの時には我が知られたるごとく全く知るべし。げに信仰と希望と愛とこの三つの者は限りなく存らん。
しかして、そのうち最も大いなるは愛なり。  (コリント人への前の書第13章)
 
027  
されど、我は教会にて異言
をもて一万言を語るよりも、むしろ人を教えんために、我が心をもて五言を語らんことを欲するなり。 (コリント人への前の書14:19)
 
ここでの「異言」とは教会外の人に通じない言葉を意味している。異言で一万回「感謝」という言葉を繰り返すよりも、心を込めたたった五つの言葉を語りたい、と使徒パウロは言う。「感謝ですね」「ありがたいですね」と言うむなしい言葉が教会の中ではびこっている。もうこんな言葉は聞きたくない。
しかし、わたしは他の人たちを教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。(新共同訳)(2002.10.6)
 
028  
人はその父母を離れてその妻に好合
い二人一体となるべし。 (創世記2:24)
 
結婚の神秘を語る言葉。神秘ではあるが、誰でも経験できる日常的奥義である。結婚をしたことがないと思われる使徒パウロでさえ「この神秘は偉大です」と語る。(エフェソ5:32)
ここで用いられている「好合い」という言葉を「あい」と読ませるのには無理があるが棄てがたい。原語では、「相連なる」とか「付きまとう」とか「離れない」ということを意味する「ダバック」という言葉が用いられている。口語訳では「結び合い」と訳されている。
男は父母と離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(新共同訳)(2002.10.13)
 
029  
うるは受くるよりも幸福なり。 (使徒言行録20:35)
 
この言葉は主イエスの言葉とされるが、福音書には見当たらない。いわゆる口伝の一つである。使徒パウロは聖職者として当然受けることができた生活費を辞退し、自分自身の労働(おそらくテント作りであったと想像される)によって稼いだものと思われる。今日で言う「特任聖職者」である。その生き方の根拠としてこの言葉を引用している。
わたしの父の名言は、「裕福さとは、自分のために使った額ではなく、他人のためにどれだけ使ったかで計られる。」福音書の中での同様の言葉「なんじら己がために財宝を地に積むな。なんじら己がために財宝を天に積め」(マタイ6:19,20)(2002.10.20)