柔軟に柔軟に

先日、私たちの教会の“オリーブクラス”の子どもたちと一緒に話す機会がありました。
こどもたちと話していると、その心が本当に自由で柔軟なことに驚かされます。
なんの下心や思いこみもありません。すべてが新鮮そのものです。
それに引き替えて自分の考えや思いがいかに形にはまった狭いものであるか、
がっかりさせられてしまいます。

 福音書の中でイエスさまが久しぶりに故郷に帰った記事があります(マタイ13:53以降参照)。
宣教生活で疲れておられるイエスさまにとって 故郷への帰還は骨休めになるはずでした。
ところが、イエスさまが聖書の話をしていると、
故郷の人々は、「この人はどこからこのような知識を手に入れたのか」と疑問を抱きました。
人々はイエスさまを「あのヨセフとマリアの子で、大工の子ではないか」としか
見て取ることができなかったのです。
よって、せっかく故郷に帰って来られたのに奇跡を行うことができませんでした。
人を狭い知識で型にはめて見てしまうと、
「目があっても見えない状態」になってしまい大きな恵みを失ってしまうことになります。

 神さまは、世界を創造され、愛を持って保っておられます。

 神さまは、日々、私たちの傷ついた心を癒したり、
絶望のどん底であえぎ苦しんでいる人のために小さな出来事を起こしたり、
必要と思われる人に出会わせたりしておられます。
でも、これらの神さまからの助けを「運が良かった」とか 自分の努力の欠課だとか
という狭い考えで捉え続けていると、せっかくの神さまからの愛に気づかず、
神さまに出会い損なってしまいます。

 私たちの毎日の生活には、神さまからの愛がいっぱいちりばめられています。
どれひとつ無駄にできないものばかりです。

 今年の大斎節も後半に入りました。
残りの大斎節の間、今まで以上にこの神さまの愛に敏感になれますよう、
子どものような柔軟で新鮮な心を願い求め、大きな恵みに包まれて過ごしたいと思います。
                                           (司祭 テモテ 内田 望)