いいわけ

司祭 テモテ 内田 望

7月に入り、ある大臣が原爆に関して失言をし、辞任しましたが
彼の失言の後のいわゆる「いいわけ」の内容は
とても恥ずかしいものに感じました。

この政治家だけではありません。
人間すべてがいいわけをしていますが
このいいわけをする習慣は、すでに旧約時代からありました。
あのアダムが「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、
         木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。
エバはエバで「蛇がだましたので、食べてしまいました。」(創世記3:13)
と神さまに対していいわけをして以来、
人間は、自分を正当化するため、あるいは責任から逃れるために、
さまざまないいわけを並べてきました。

イエスさまは、人間の持っているこの思いをよくよくご存じでした。
そして、宴会を設けた人が人々を招待すると、
「畑を見に行かなければならない」
「牛を調べに行かなければならない」
「妻を迎えたので行けない」
といういいわけをして
招待を断っているたとえ「大宴会のたとえ」をされました(ルカ14:15〜)。

いいわけとは、表面上うまく真実を装ったウソです。
それは恐怖心から芽生えます。
「ごめんなさい」と言う代わりに「仕方がなかったの」と言うように子どものときから始まっています。
また、私たちの多くは、いつも失敗や失態への恐怖を抱いています。
これから何かにつけて逃れようとする心理が生まれ、
自分を正当化してしまうのです。
また、いいわけは、物事を合理的に考えようとすることから始まりました。
真実を直視したくないために、
理由のないところに理由を見いだそうとするのです。
このことは、「わたしの隣人とは、誰のことでしょうか」と
イエスさまに尋ねたファリサイ派の人の話によく表れています。
このときイエスさまは、善きサマリヤ人のたとえを話されました(ルカ10:25〜)。
このファリサイ派の人は、
実は隣人が誰かなど知ることには関心がなかったのでした。
ただ自分にとって良い口実を探していたのでした。

いいわけをするのはなるべくやめたいものです。
それよりも少しでも誠実な人間になりましょう。
広い心を持ち偏見や思いこみを捨てれば、
神は、私たちが自分自身のためにできないことも、
私たちのために行ってくださることでしょう。

(教会報 6月号より)