2012年4月8日2012年4月8日2012年4月8日

福音書  ヨハネによる福音書 第15章 9-17節

~ 水野源三の詩による歌曲集 ~

「こんな美しい朝に」

 霧が次第に 晴れてきて
 山々が姿 あらわす
 こんな素晴らしい朝に
 主は 主は よみがえられた

 空高く ひばり鳴きだし
 露にぬれて すみれ咲く
 こんな美しい朝に
 主は 主は よみがえられた

 早起きの人が笑顔で
 朝のあいさつを かわしあう
 こんなうるわしい朝に
 主は 主は よみがえられた

* 水野源三さんは1946年、9才の時、赤痢にかかり、さらに脳膜炎を併発して、
  その後遺症のために体や言葉の自由を奪われてしまいました。
  絶望の淵にいた水野さんですが、12歳の時、イエス・キリストと出会い、
  キリスト者としての歩みを始められました。
  やがて水野さんは多くの詩を作り始めます。言葉の話せない源三さんのために
  お母さんが50音表を指さし、源三さんが瞬きで合図して音を一つ一つ拾い、
  書き表していくのです。その作業の中から生まれる素晴らしい詩の数々は
  多くの人の心に響き、水野さんは「瞬きの詩人」として知られるようになりました。


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福音書  ヨハネによる福音書 第14章 15-21節

真理の霊

 洗礼によって私たちは、新たに生まれ変わります。聖霊が私たちの中に宿ってくださり、私たちを
導いて絶えず新たに歩ませてくださるのです。その働きは、ヨハネ福音書では「弁護者」「助け主」と
して描かれています。この言葉はもともと、法廷で誰かの横に立ち、弁護と証言をする人のことです。
それは、落胆している人を励まし、慰め、暗闇にいる人の足下を照らす方です。イエス様は昇天された後、
私たちの前からは目に見える形ではおられなくなりましたが、常にご自分と一体である「聖霊」として
私たちと共にいてくださることを約束してくださいました。
 この霊は「真理の霊」とも呼ばれています。それは私たちに神の業を「見させ」「想起させ」
「悟らせ」「真理を明らかにする」霊であり、教会の働きの中で、また私たち一人ひとりの人生の中で
導き手となってくれます。私たちはこの霊の力によって、道であり真理であるイエス様を知ることが
できるのです。真理というのは、もちろん、科学的な真理や客観的な事実という意味ではありません。
そうではなく、何よりも先ず、イエス・キリストによる神の恵みが何であるかを知るということであり、
神との正しい関係に入れられ、意味のある人生を歩むことができるということだと思います。人はみな、
人生の中で、自分でもなぜか無味乾燥と感じる生活を送ってしまった経験をもっているのではないで
しょうか。それを偽りの生き方と言っても良いかもしれません。
 本当の生き方を見つけることによって、私たちは真理に目覚め、神によって造られたものとして、
新しい生き方をすることができます。一人ひとり、それぞれの人生があり、自分に与えられたそれぞれの
道があります。自分の生き方の中に、私たちもまた真実なものを見出して、精一杯誠実に生きて行きたい
ものです。


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福音書  ヨハネによる福音書 第10章 11-16節

羊の群れ

 キリスト教の教会の責任者を「牧師」と呼びます。それは、「羊を牧する者」、すなわち
羊飼いからきています。ヨハネ福音書の10章には、「羊飼い」の喩えがいくつか示されています。
今日のみ言葉では「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と、
イエス様ご自身が語られています。
 「良い羊飼い」は、まず第一に、羊を愛し、羊を守るために全力を尽くします。第二に、羊たちは
羊飼いを全面的に信頼しています。第三に、イエス様は「わたしには、この囲いに入っていないほか
の羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は
一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」と語っておられます。羊の群れは閉ざされた集団では
ありません。羊たちは、新しい仲間を歓迎し、大きな群れが生まれます。第四に、イエス様は「良い
羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語っておられます。
 初代教会の人々は、イエス・キリストのこの教えを教会生活の中に生かしていました。今日の使徒
言行録には、当時の教会の姿が、少し理想化されてはいますが、克明に描かれています。それは、
互いに助け合う姿です。たくさんの財産を持っている者は、それを売って貧しい人々と分かち合い、
教会には「一人も貧しい人がいなかった」と書かれているのです。これは、いわゆる「私有財産の否定」
ではなく、人々が助け合うことが教会の本質的な働きだということを強調しているのです。
この姿に、わたしたちももう一度倣わなければなりません。
 牧師として私は、①主教座聖堂として、与えられた役割をしっかりと果たす、②あらゆる年齢、階層の
人々に対して宣教するために、可能な限りの試みを行う、③一人ひとりの信仰的目覚めと成長を祈り求める、
ということを大切にしたいと思っています。そのためには、私たち一人ひとりが燃えるような信仰を持ち、
神の恵みがこの教会に与えられるよう祈らなければならないのではないでしょうか。



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福音書  ルカによる福音書 第24章 36-48節

ハイジの祈り(子どもとともにささげる聖餐式)  

 神の子であるイエスさまは、死んで復活し、永遠の命に入られました。
イエスさま の復活によって、私たちに希望が与えられ、「平和」が与えられて
います。お弟子たちは、復活のイエスさまに出会うまでは、不安でたまりません
でした。だから部屋に閉じこもって鍵をかけていたのです。そこへイエスさまが
現れ、「安心しなさい。私 が一緒にいるよ」と声をかけてくださったのです。
 私たちは、学校や毎日の生活の中で、うまくいかなかったり、がっかりしたり、
恐ろしかったりします。先生や親、友だちとの関係でも、辛い目に会ったり、
悲しかっ たりすることがあります。そんなとき、イエスさまがいつも共にいて、
「安心しなさい。平和があるように」と言ってくださいます。そのことが分かった
とき、私たちは、生き返って、また毎日を元気に暮らすことができます。
 『アルプスの少女ハイジ』という物語があります。アルプスの山で育ったハイジと
いう元気な女の子が、周りの人たちを元気にし、幸せにし、すべてのことを良い方に
変えていくお話しです。親友のクララは大きな町で、大きなお家に暮らしていて、
何不自由ない暮らしをしていますが、体が弱く歩くことができません。ハイジは、
クララのために祈ります。小さな女の子ですから、はじめはお祈りの仕方も分から
なかったのですが、心から神さまに祈りました。何年かたって、クララは車いすに
座って、 ハイジに会うためにアルプスの山にやってきます。素晴らしい景色と
おいしい空気、おいしいミルク。だんだんと、クララは元気になって行きます。
そして、ある日、車いすが壊れたことがきっかけになって、クララは自分の足で立ち
上がるのです。奇跡 が起こりました。
 もちろんハイジが一生懸命にお祈りしたことが、神さまによって聞かれたのです。
イエスさまの復活によって、私たちには明るい道が与えられています。どんな辛いことが
あっても、きっとうまくいく。「安心していなさい。」とイエスさまは教えておられます。
ハイジは、自分のことだけでなく、クララのためにも祈りました。皆さんも、友だちの
こともお祈りしましょう。辛いことや悲しいことにあっている友だちがいたら、
その人たちのために祈りましょう。


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福音書  ヨハネによる福音書 第20章 19-31節


死よおごるなかれ  
聖なるソネット
(ジョン・ダン*1)

死よおごるなかれ 
汝を力強く恐ろしいという者もいるが
決してそうではない
汝が倒したと考える者は 死にはしない
おろかな死よ 汝は私を殺せない

汝の似姿たる休息と安眠からは
より大きな喜びが生まれ出てくる
最も優れたものが死を急ぐのは
骨に安らぎを与え 魂を開放させるため

汝は運命や偶然、王侯や絶望した人の奴隷
汝は牢獄、戦争、疾病の隣人
芥子粒や呪文も同じように人を眠らせる
汝の一撃よりもよく
だから威張ることはない
束の間の眠りの後我々は永遠に甦る
そこにはもはや死はない
死よ 汝こそが死ぬのだ

*1
ジョン・ダンは16-17世紀のイギリスの詩人。
ロンドンの聖パウロ(セント・ポール)大聖堂主任司祭。
とくに晩年は深い信仰に支えられた詩を発表した。
この詩はイエス・キリストのよみがえりの力強さを讃えたものである。
ヘミングウェイの小説の題名になった「誰がために鐘は鳴る」という言葉も、
ジョン・ダンの詩の一節からとられた。


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福音書  マルコによる福音書 第16章 1-8節


復活節には旧約聖書の代わりに使徒言行録が読まれる。今日の日課の中では、復活の証人と
なった弟子たちが、その経験に基づいて力強く宣教に邁進する様子が生き生きと記されている。
なぜ三度までイエスさまを知らないと言ったペトロを始め弟子たちが、このように大胆に
イエスさまを宣べ伝え、命を抛ってまで、イエスさまに従おうとしたのか。
 イエスさまの復活に関する4つの福音書の証言において共通して指摘されているのは、
女性たちが真っ先に復活の証人となったということである。復活日の朝、準備していた香油を
イエスさまの遺体に塗って差し上げようとして、まだ暗いうちにお墓に行き、お墓が空であると
いう事実を発見したのは女性たちだった。女性たちが最初の証人であったということは二つの意味で
重要である。一つは社会の中で二重、三重に抑圧された女性たちの必死の思い、熱烈な信仰が
そこに現れているということ、もう一つは、聖書の証言が決して作り話ではないということである。
女性たちは当時、一人前の人格とは認められず、子どもたちと同様に証言能力がないとされていた。
その女性たちを証人として登場させているのは、逆に言えば、それだけの真実がそこにはあるのだ。
 すべての福音書に共通しているもう一つの記述は、女性たちが墓についたとき、墓は空であったと
いうことである。それは人間には理解できない、不思議な、神的な出来事であった。それを目撃した
女性たちは怯えた。しかし、聖書の女性たちは、生前のイエスさまに対する愛から、恐怖を乗り越え、
この恐ろしい事態を喜びをもって受け入れることができた。
 男性の弟子たちが、イエスさまの復活という事態を受け入れるためには、復活されたイエスさま
ご自身が幾度となく弟子たちの前に現れなければならなかった。しかし、彼らは、聖霊を受けて、
聖霊の助けによって、見えないキリストを信じることができるようになった。
 私たちは、それぞれの生活の場に帰って行くが、決してバラバラになっているわけではない。
川口基督教会という神の家族の一員として、それぞれの現場で暮らし、宣教している。
その中で出会った人を一人でも、この教会に招きたいものである。それが復活のイエスさまと出会った
喜びを分かち合う道だから。