バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第五部(4)鳩

  「キリスト讃歌」 (フィリピ2;6〜11)

 
キ リストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして 僕の身分になり、人間と同じ者になられました《以 下はご自分でお読みください》

 聖霊の働きを受けて、キリストの恩恵の有難さを知り、新しい自分を体験した者は、新しい自分の根源となら れたキリストを賛美し、云い表し、人に告げ知らせないではおれません。その事を実感する為には、キリストの 霊と、違う別の偶像の霊とを見分けることが出来ねばならなくなります(Tコリント12;1〜3)。そしてキ リストの聖霊によらなければだれも「イ エスは主である」と云えないと、説くようになります。「イ エスは主です」と本当の意味で言えるかどうかが大切な問題なのです。

 パウロはTコリント2;3で、「わ たしはあなた方の間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に 決めていた」と書いています。「十字架につけられたキリスト」とは二千年前に、ローマの 兵士によって十字架につけられたキリストの姿だけを伝えているのではありません。「キリストが十字架につけ られた姿のまま今も示されている」という事を言っています。パウロがキリストと云う時、地上の歴史的人物と 云うだけでなく、復活して現在生きておられる霊なるキリスト・メシアを指しており、すでにその主キリスト が、私たちを救いに導かれた真実が含まれているのです。
しかし、(十字架につけられて殺されているという相を持った復活者キリスト)と云う現実は、人の知恵の言葉 や論理で説得できるものではありません。それは「御霊と力の迫り」によって、聞く者の魂に直接示されねばな らぬものです。パウロも「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えたのです。その結果その福音を信じたガラ テヤの人々に、聖霊が注がれて彼らも「十字架上に殺されて復活したキリスト」と云う二重の相を「はっきりと 示された」のです。

 こういうわけで「イエス・キリストは主である」と公けに宣べ、父なる神を讃えるのです、とキリスト讃歌の 最後に賛美を献げられます。もう一つパウロの言葉をここで引用します。「肉 の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(ローマ8:6)と私たちキリスト者 が与えられた命と平和に感謝し、キリストを賛美しています。肉の思いとは何でしょう? 人間が生まれつき 持っていて、それから逃れられない煩悩・欲望。不安・闘争心の数々でしょう。それの為に人間は善なる人間性 を失って、神が創られた本当の人間ではなくなってしまうこと、それが死です。聖霊に支配され生きている人 は、イキイキとした人間性で、単純にイエスが言われる善の方向に進んで行く。それが本当のいのち(ゾーエ) であり、物事をくよくよと思い煩わない。自分も平安であり、他人にも平和である。平和の根本義のようです ね。だから自然に「いつも喜んでおり、すべてのことに感謝する」ようになるのです。
 聖霊によって生きる者となった時、自然と心に湧き上がる「キリスト讃歌」を、この項の決着として記しまし た。私たちキリスト者は、キリスト讃歌を歌いながら、みんな「新しい永遠のいのち」(第六章  永遠のいの ち)へと新生して行きます。

第四部 字句訂正
文中、安部首相を、−−「阿部」と誤記致しました。お許しを願って訂正いたします。

 

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