バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第六部 その2-(1)鳩

「信仰・希望・愛」の展開の物語

 第六部 「永遠のいのち」  (その2)

 

人 の子の肉を食べる者」(イエスの命を食べるユーカリスト=聖餐)

 「よくよく言っておく。人の子の肉 を食べず、又その血を飲まなければ、あなた方の内に命《ゾーエ―》はない。わたしの肉を食べ、わたしの 血を飲む者には、永遠の命がある。わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉は真の食物であ るからである。」(ヨハネ福音書6;53〜55)

 ここで「人の子の肉」」「人の子の血」と云われて いることに注意して下さい。「人の子」とは復活して天に挙げられることによって、天から下って来た者である ことを確証された、イエスを指しています。その方の肉と血と云うのは、その方が十字架の上で肉を裂き、血を 流されたことを指しています。「人の子の肉を食べ、その血を飲む」とは、復活された霊なるキリストを信じ、 その方に自分の全存在を投げ入れて委ねることにより、キリストの十字架の死を自分の死と受けとめ、キリスト の十字架の死に自分も合わせられて死ぬことです。それだけが永遠の命を受け、復活に至る道なのです。イエス は更に、

 「わたしの肉を食べ、わたしの血を 飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。生ける父がわたしを遣わされ、またわたしが父によっ て生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(ヨハネ福音書 6;56〜57)。

 キリストの十字架に合わせられてキリストと共に死ぬ者は、もはや自分が生きているのではなく、復活された キリストがわが内に生きておられるのです。キリストは神によって死の中から復活して生きておられます。キリ ストにある者も、キリストによって、この復活の命を生きるのです。
キリストを信じるとは、キリストを食べること以下ではありません。キリストを離れた所から眺めて、キリスト に向かって自分から何かをしてゆくと云うようなものではありません。キリストに自分を明け渡し、「主よ!」 の一言の祈りに自分の全存在を投げ入れ、キリストと一つに合わせられて一緒に生きて行くことです。パンは体 内で消化され、私の体の一部となります。パンを食べ葡萄酒を飲む聖餐式も、本来この意味でキリストを食べる ことを象徴する行為であるわけです。よく若い時には熱心な信仰を持っているのに、何時の間にか信仰から離れ てしまう人があります。結局霊の人イエスを肉の次元でしか知らなかったからでしょう。ついに復活されたイエ スに会い、霊となられたキリストを体験し、最後までイエスに従って行く人は幸いです。その人は永遠の言葉を 聞いて、永遠のいのちを得るに至ります。
聖餐式で聖餐を受けるのは、単にキリストの十字架と復活の記念式に参列しているだけのことでは勿論ありませ ん。また、頂くパント葡萄酒が現実にキリストの肉と血に変化していると、私には思えません。だけど、霊なる 復活者キリスト・イエスが、そこに現在して、「わたしはあなたとこのように合一して常に支えているのだよ」 と励まして下さる時だと思っています。だから、信徒はできるだけ頻繁に聖餐に与ることが最も大切なのです。


 

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バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物 語』

 第六部 そ の2: 1 2 3

 

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