バルナバ栄一の『「信仰・希望・愛」の展開の物語』 第七部 その2-(2)鳩
 

父 なる神の愛

 三位一体の神様がそれぞれ性質の違う愛を、私たち に注いで下さっているとは勿論考えられません。私たちの内にあって「愛とはこういうものだよ」とその時その 時に応じた言行を、意識させることなく指し示して下さるのが聖霊であり、キリストの御霊であると思います。 そしてそれは、愛の源泉であられる父なる神の愛(アガペー)から出て来るのです。

T、父の慈愛――イエ スの「神の国宣教における愛――」
 イエスの宣教を要約して神の慈愛を顕す重要な言葉が二つあります。
「アッバ」と「バシレイア」です。

T、「アッバ」はアラム語の、幼児が父に対して発する愛語「お父ちゃん」です。父と子の間柄を示す愛情のこ もった、世界中で用いられている言葉です。弟子たちはいつもイエスが祈っておられるこの「アッバ」と云うア ラム語を聞いていましたから、ギリシャ語で書かれた福音書の中でも『アッバ、父よ』と愛情こもった、イエス の声をアラム語で再現しないではおれませんでした。おそらく弟子たちは父なる神の愛をも、イエスの「アッ バ」と云う声の響きの中に聞きとっていたでしょう。

U、「バシレイア」と は元来『神の支配』、神が王として支配される現実を意味しています。「神の国」と云うと、領土と云うイメー ジが強くなり過ぎるきらいがあります。イエスがご自分の宣教内容を「神の支配」と云う言葉で語られたのは、 当時のユダヤ人の待望の中で、神の救済の時、つまり終末の時に到来する神の支配が、広く待たれていたからで す。しかしイエスはこの言葉の中に、旧約では見られない独自の新しい内容を盛られたのです。
 律法一点張りの当時のユダヤ教世界、神殿律法、ファリサイ派の律法、更にそれを上回る厳しい律法のエッセ ネ派、ゼーロタイなど、が「貧しい者たち」を圧迫していました。
 「貧しい」と云うのは、収入や資産が少なくて貧困生活をしている人を一義的に示すものではありません。ユ ダヤ教社会では、律法を知らず、律法を守る生活をすることが出来ない人々を、「罪びと」と称して、神の民と しての資格のない者として社会的に葬っていました。イエスは聖霊により、イザヤ書から受けとって、

 「主の霊がわたしの上におられる。 貧 しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたの は、捕らわれている人には解放を、目の見えない人には視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4;18〜19) と語られました。

 ここで「貧しい人に福音を告げ知らせる」とは、解放、回復、自由を与えると云う形で実現し、「主の恵みの 年を告げ知らせる」こととまとめられます。貧しい人に「神の国はあなた方のものだ」と福音を告げられる時 (ルカ7;22)、神の圧倒的な恩愛の支配が来たと告示されるのです。裁きによる神の支配の貫徹ではなく、 恩恵と云う原理による神の支配が来たことを告示されるイエスの宣教については、第1部、「神の国は近づい た」をご参照ください。ここではイエスの言葉「医 者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人だけである。私が来たのは正しい人を招く為ではなく、罪びと を招く為である」(マルコ2;17)だけをあげて次にうつります。


 

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