2005年11月27日 降臨節第1主日
大阪聖パウロ教会 第21代牧師 ヨハネ 成田 邦雄
大阪聖パウロ教会の創立120周年の年を皆さんとともにお迎えできましたこと、心からお喜び申し上げます。
「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。(コリントT 3:6)」と聖パウロはその手紙の中で語ります。実に、現在の大阪聖パウロ教会があるのには、教籍簿に記載された2000人あまりの大勢の方々の、祈りと、働きがあり、さらにこの方々と言う宝をお用いられた神様が、支え、後ろから励まし、導かれたからでありましょう。
わたしはこの4月に牧師として派遣されてまいりました。その時、120年の記念すべき年にあたっていると、前任の任司祭からお聞きしていました。大阪聖パウロ教会のこの節目に、神様の御心のいかにあるかを皆様と、祈りの中で求め続けてまいりたいと思いました。私たちを愛し、この大切なときに、この教会に共に、席を同じくすることを得ました信徒一同、同じ想い、授けられた一つの使命を全うするべく祈りと交わりを、継続していきたいと考えております。
さて、120年のこの時をきちんと記録に残したいと、教会委員会は働きを進めてくださいました。つぎの200年に向かって、一つの良い記録と、区切りをつけてくださいました。感謝を申し上げますと共に、信徒の皆が機会を得る毎に、語らいの場が作られ、全てのことを共有する教会でありたいと願うものです。
最後に、この喜びのときをご一緒に迎えることの出来たことを共に、感謝しつつ言葉と致します。
礼拝堂のステンドグラス
『創立120周年を迎えて』
日本聖公会大阪教区 主教 ヤコブ 宇野 徹
今日は大阪聖パウロ教会「創立120周年記念礼拝」を皆様とご一緒にすることが出来ますことを大変嬉しく思います。また、この120年の間、神様の豊かな導きと見守りと共にこの教会に遣わされた教役者、信徒の方々の働きによって今日のパウロ教会のあることを思い、感謝をお捧げ致したいと思います。
さて、昭和49(1974)年2月11日に発行された「大阪教区50年史」に大阪聖パウロ教会について次のように記されています。
「聖パウロ教会の創設は、明治18(1885)年2月である。川口にあった聖テモテ教会から分離して16名の信徒によって組織された。最初は聖慰主教会で礼拝を行い、18年5月には槌橋筋に民家を借り受けて仮礼拝堂とし、6月初旬の日曜日に創立礼拝を挙行した。司式説教はウィリアムス監督、補助者は早乙女豊秋師であった。明治21(1888)年に教会名を聖パウロ教会と命名し、早乙女師が仮牧師に就任した。22年には会堂家屋の改造が成ったので移転、木津講義所などを開き、盛んに伝道を行った。同年、早乙女師の立教学院転任により大生閑太郎師が仮牧師となり、更に、同師の留学により後任として近重利澄執事が牧師に就任した。明治25(1892)年に発足した大阪実業館は、貧児の救済を目的とした慈善事業であったが、経営難に陥り明治29(1896)年に閉館となった。明治36(1903)年8月には近重師が東京の伝道学校に招聘され、その後任として山田 祐執事が任命され、9月29日長老に按手された。明治43(1910)年9月29日に教会自給を断行、11月には会堂建設委員会を組織し、準備にとりかかった。云々」と。
今、お読み致しましたように、明治18年2月に川口にあった聖テモテ教会から16名の信徒が分離して、聖パウロ教会を設立する組織が出来たのであり、その理由は何であったのか記されていませんが、新しい教会が誕生することになったのであります。分離して3ヶ月間は、聖慰主教会に間借りし、5月には槌橋筋に民家を借りて、そこで礼拝し、6月の初旬の日曜日にウィリアムス監督と早乙女豊秋師を迎えて創立礼拝を行っています。その3年後の明治21年に教会名を聖パウロ教会と命名し、早乙女師を仮牧師として迎えています。次の年に家屋を改造した新しい礼拝堂に移転し、講義所などを開いて盛んに伝道をしています。聖パウロ教会が創立された明治18年から自給教会になることを決断した明治43年までの25年間に仮牧師、牧師に早乙女豊秋師、大生閑太郎氏、近重利澄師、山田 祐師の4人が歴任し、その間、明治25年には貧しい子供を救済することを目的として大阪実業館を設立したのですが、経営困難のために4年後に閉館しております。このように、聖パウロ教会は、いろいろな困難なことに遭遇しながらも、伝道、宣教に積極的な姿勢で歩んできております。
大阪教区が成立した大正12年には聖パウロ教会は横堀にあって、牧師は安倍 騰師で、その年の末には聖パウロ教会の現在信徒数は316名という統計が出ています。その2年後の昭和2年1月28日に教会建築委員会が発足し、翌年の4月、梅田新道に敷地を購入することを決定。昭和4年2月18日に仮礼拝堂に移転し、同2月28日には新聖堂起工式を行い、次の年の昭和5年1月25日に建築家岡本新次郎氏による鉄筋コンクリート造り3階建(地下1階)の教会が竣工したのであります。その状況を「大阪教区50年史」に次のように記しています。「名出、ニコルス両監督列席のもとに盛大な聖別式が挙行された。大阪教区の北部地区に威容を誇る堂々たる教会が出現、会堂の十字架は梅田新道、露天神社(お初天神)の隣に聳え立った」と。実に立派な鉄筋コンクリート造りの3階建の教会が建てられ、人々の目を引くようなものであったことを物語っております。そのお陰で戦火に遭いながらも、それに耐えることが出来たようであります。
曽根崎
イースター集合写真 | |
昭和28(1953)年 4.5 曽根崎にて | 平成16(2004)年 4.11 茶屋町にて |
戦火が激しくなって来た昭和20年3月に聖パウロ教会の安倍牧師が急逝されたため、川口基督教会牧師の側垣基雄師が聖パウロ教会牧師を兼務されることとなり、戦災にあって全焼した西宮聖ペテロ教会牧師の堀江光児師が昭和21年4月に焼け残った聖パウロ教会牧師として赴任し、昭和24年まで働かれました。この3年という短い期間に教会で英語を教えるようになり、1階ホールだけでは収容し切れない程、多数の受講生が集まって来たのであります。これらの受講生を対象にして夕の礼拝がなされ、受講生の中からも洗礼を受ける人もいたと言われています。
1985年に発行された大阪聖パウロ教会の「百年誌」に堀江光児司祭が次のように書いておられます。「大阪市内で住宅を焼失した人々が、遠い郊外地に移られたので、家庭訪問をすることはとても大変なことでしたが、また、逆に考えれば、遠方に移られた方々が遠きを遠しとしないで礼拝によく出席されただけでなく、その家を開放して近所の人を集めて集会が各地で開かれるようになったので、却って、聖パウロ教会域は拡大されたとも言えるでしょう」と。
大阪市内に住んでいて、戦災のために焼けだされた信徒は、遠い郊外地に移り住まねばならない災難にもかかわらず、その災難を生かして自分達の家を開放して、近所の人達を集めて家庭集会をして、伝道するチャンスに用いたことに目を注ぎたいのであります。初代教会の信徒達はエルサレムでユダヤ教徒の迫害に会い、地方へと移り住まねばならない状況の中で、彼らは移り住んでその土地でイエスの福音を宣べ伝えて、多くの人達をキリスト教へと導いていったのであります。このように、初代教会の信徒達は、時が良くても悪くても福音を宣べ伝えたのであります。それは信徒自身が福音によって生かされ、生きていたことの証であります。
また、堀江光児司祭の後、堺聖テモテ教会牧師の松本寛一司祭が聖パウロ教会牧師に赴任されました。伝道心の旺盛であった松本寛一師は山陰ミッションや紀州伝道など常に前向きに伝道を考えておられました。その一つが万博開催を視野に入れながら、東豊中の島熊山に土地を購入し、昭和42(1967)年12月に丘の上の教会として建築されました。藤倉恒雄司祭はその教会を用いて、当時、社会的ニーズの高かった保育園を創設し、地域に奉仕する教会としての働きをされたのであります。このように、聖パウロ教会は自分達の教会の維持に留まらず、他に伝道や宣教の新しい拠点を求め、その重荷を担う働きをしてきたのであります。
そして、曽根崎にあった教会の建物が老朽化する中で、教会改築のために梅田周辺に代替地を求めることを決断し、1980年に北区茶屋町(現在地)に土地を購入し、次の年の4月に現在のこの教会が建築されて24年を経過し、今日に至っております。かつて隆盛を誇っていた梅田英語専門学校も時代の波に押されて閉鎖し、現在はキリスト教精神に根ざして働きをしているJOCS等に部屋を貸しております。今後、この聖パウロ教会がこの地においてどのような伝道、宣教活動を行うかが問われていると言えましょう。住宅地ではなく、ターミナルを近くに持ち、若者が多く集まってくるダウンタウンにある教会として、その特典を生かした伝道、宣教活動を常に希望に満ちた、具体的なビジョンを描きながら、これからの歩みをしていきたいものです。本日は教会創立120周年、おめでとうございました。
最後に、使徒言行録11:19〜23をお読み致します。
「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされた人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネから来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシャ語を話す人々にも語りかけ、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、信じて主に立ち帰った者の数は多かった。このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえたので、教会はバルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着すると、神の恵みを与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から離れることのないようにと、皆に勧めた」と。
2005年6月26日 大阪聖パウロ教会 創立120周年記念礼拝メッセージより