「生と死を考える」講演会
―沼野尚美さんからのメッセージ−

『癒される人とのかかわり』

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

―マタイによる福音書11章28節―

誰もが避けて通れない「死」−
自分自身に、あるいは身近な人に、その「死」が近づいてきた時−
あなたは、何を感じ、何を考え、何をしようとするのでしょうか。−

心あるメッセージに耳を傾ける機会が与えられました。
この集いが実現したことをとてもうれしく思っています。

☆沼野尚美さんのプロフィール
薬剤師から、淀川キリスト教病院チャプレン、姫路聖マリア病院チャプレンを経て、
現在、六甲病院緩和ケア病棟専属チャプレン。日本バプテスト病院カウンセラー兼務。
京都ノートルダム女子大非常勤講師。


△日 時 2000/11/26(日)
13:30〜16:00

△場 所 日本聖公会 石橋聖トマス教会

△入場無料

主催/日本聖公会 石橋聖トマス教会

☆ 沼野尚美さんのおはなし

旅立つ人とのかかわり

 十一月二十六日(日)午後、沼野尚美さんをお迎えして当教会で伝道集会が開かれた。沼野さんは現在六甲病院緩和ケア病棟チャプレン、日本バプテスト病院カウンセラーを兼務。マタイによる福音書11章28節「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」の聖句を基に、心温まるメッセージを聞かせて下さった。企画委員を中心に積極的な広告、案内がなされ、106名(外部からは42名)が出席。長野泰信さんの司会、牧口望さんの紹介で始まり、二時間に及ぶ講演に会堂は涙と笑いに包まれた。
 その後、下のホールで歓談のひと時がもたれ、去りがたい余韻のうちに散会。以下はその講演の要旨。

 今日は皆様とご一緒に神様を褒め称える機会が与えられたことを嬉しく思います。私の母は四代目の聖公会信者、今日は古巣に帰ってきたような気が致します。今から約六年前の阪神淡路大震災は、私に多くのことを教えてくれました。一言で言うなら、「生かされている喜びを、深く味わえるようになった」ということです。自分で生きているというより生かされているのだ、と。しかし生かされていることが重たく感じられることがあります。薬剤師として老人病院で垣間見た、喜びも希望も無く、心の中に重たい荷物を持ちながら「生かされなければならない」人の苦しみ。また、震災時に神戸の病院での苦い体験を通して、「人には心があり、心が生き生き
していないと生きられない。心に配慮した人と人との繋がりを大事にしたい」という思いに至りました。
 私はホスピスで心のケアを担当しておりますが、ホスピスは癌の末期など、医師の診断で余命六カ月という方がお入りになられる所です。ですから、病棟で桜を観ておられる場合、よほどの奇跡がない限り、これはこの地上で観る最後の桜、また今年のクリスマスも最後である可能性が高い。そんな所に入院しておられる方は毎日泣いているのでは、と思われるかもわかりませんが、不思議なことに私たち以上に深く生かされている喜びを味わい、命の尊さを感謝して輝いていらっしゃる方も、実はいるのです。それは何故か?そういうことを、今日はご一緒に考えていきたいと思います。
 私は心のケアを担当する中で、人生のお話を色々と伺います。病院のベッドに寝ておりますと人の心が見えるんです。そして自分の死期を悟られる一-二週間前には、自分の心が見える。それは「自分には傷ついた人生の部分がある」ということです。何に傷つくかというと"人間関係"。多くの方が親子、兄弟、会社の上司・部下など人間関係の痛みを引きずりながら、旅立ちの日を目前にしておられる。皆さんご自身はどうですか。傷つきながら癒されてきた、という経験はおありではありませんか。私は仕事で疲れストレスがある時、次の聖句を唱えます。「すべて重荷を背負って苦労している人は、私のもとに来なさい。私が休ませてあげよう。」心が重たい時、この言葉が温かく響くんですよ。どんなに傷ついた人生でも、必ず安らぎをあげよう。これがイエス様の絶対に裏切らない約束です。問題は、これがどう届くかということです。
 一つには、それは"自然"を通して来ます。多くの日本人は昔から、自分の苦しみや悲しみは人様に言うものじゃない、と。パンクしそうな心のストレスをどこに打ち明けてきたか、それは"自然"ですね。日本人は自然の静けさと対話することに大変優れています。あるホスピスで、最後の散歩に連れ出した四十代の女性は、青空や、木々、草花の中で初めてその波乱万丈の人生について口を開き、こう言いました。「沼野さん、私、男運が無かったみたい。信頼して結婚したのに、裏切られた。それが三回も続き、私はもう人を信頼するのを止めようと思った。それからここへ来て、予期していなかった人との出会いがあった。こんな私を皆さんが大事にして下さった。私、やっぱり人間って素敵だなと思うんです」。
皆さんこれが安らぎ、癒しですよ。これ、誰が運びましたか?
 イエス様の安らぎは、二つ目に「人が運ぶ」ということです。人を大事にするという言動を通して、イエス様が約束して下さった「休みをあげよう」という安らぎが届くのです。皆さんが、どうかかわられるかによって、その方の心に安らぎが届くかもしれないのです。今置かれている所でいいですから、意識してイエス様の安らぎを届ける器、道具になるのだという使命を持って欲しい。

"宿題"を果たして死に就いた人々
 死は誰にとっても避けて通れないものですが、死を目前にしている方々に対する二つの援助についてお話ししたいと思います。一つは「最後に自分のしたいことを成し遂げるのを援助する」ということです。少し前になりますが、小学校六年生を受け持っておられた五十代の女性が末期癌で入院してこられました。この方が最初におっしゃった言葉は「もう一度教壇に立ちたい」。ご家族はこんなことでエネルギーを使われては、と猛反対。病院側も咳のコントロールが難しいので反対の立場でしたが、ついに根負け。お化粧をなさり、スーツ姿で自分の足で教室まで上って行ったんですよ。しかも咳は出なかった。自分の人生で最も成し遂げたいことを、今日しなければ二度とチャンスは来ない、そういう緊張感が咳を止めたのでしょう。先生は精一杯、最後のメッセージを語られました。教師という仕事を選んだ自分の幸せを、子ども達一人一人が自分の宝で、どれほど大事に思っているかを。
 この最後のメッセージを聞いた生徒達は、特別なプレゼントをもらったのです。人はどういうふうに生き、どういうふうに自分の人生をまとめて、この世を去っていくのかを、この子達はこの年齢で体験したと言えるでしょう。帰ってこられた先生は体力を使い果たし、「私の成すべき事はすべて出来ました、ご協力有難う」とおっしゃって、アッという間に亡くなられました。でもご家族の方々は「やっぱりさせて良かった」とおっしゃいました。
 六十代後半の男性は「私、趣味のカメラでもう一回撮りたい場所があるんですよ」と言われました。「ほう、どこです?」と聞き返しますと、「ネパールの山」。これには「是非行っていらっしゃい」とは言えなかったですね。ところが、横にいらっしゃった奥様が「あなた!行きましょう」ですよ。病院の中を引きずるようにして歩いている人が、リュックサックを背負って行けると思います?けどね、行ってちゃんと帰ってこられました。そしてネパールの山の写真をあちこちに貼りました。彼はそれを見ながら息を引き取ったのです。家族の決断って大きいな、と思いました。そして人生の中でいつも宿題を残しておくことの大切さ。私はまだあれをしていない、という宿題。目を輝かせてやりたいという何かを持っている人の強さを感じました。

姿はなくとも親であり続ける
 二人の幼い子どもを持つ二十代のお母さんからは、「レターセット買ってきて」と頼まれました。彼女は五歳の息子が小学校へ入るまで生きられないと悟られ、平仮名ばかりの手紙を書き始められた。「今日、小学校へ入学した○○くんへ。お母さんはお星様になって見ていますよ。あなたはお母さんの誇りです」。次に、この子が中学校へ進む姿を想像して「中学生になった○○くんへ」。さらには「高校生になった○○くんへ」。一人の子供に対して数通の手紙を、その時々に渡して欲しいとご主人に頼まれたのだそうです。「本当は八十年間かけて、ゆっくり親の愛を表現するはずだった。それが出来ない今となっては、産んだ親がその愛を少しずつ注いでいる、ということを伝え続けたい」。二十代で、よくぞこんな知恵を持っておられると、感銘を受けました。
 私がお手伝いしている二つ目の援助は、天国への旅立ちの援助であります。多くのキリスト教信者は、はっきりと天国があると言います。神様から永遠の命を頂いて、天国で再会するという信仰がなければ、私自身、この仕事を長く続けることは出来なかったでしょう。多くの日本人から聞かれます。「沼野さん、天国ってあるの、ないの?あるんだったら、どんなとこ?」。黙示録には「天国は宝石の壁で出来ている」と書いてあります。私は宝石とは余りご縁がなく、そういう所を読んでもあまり温かい気持ちにはなれない。でもこれを喜ぶ方がいるんです。数カ月前、余命いくばくもない奥様がカタログショッピングをしておいでになった。「まだ十二月までの誕生石が揃っていないの。だから、旅立てない」。その時私、言いました。「あのね、天国ではすべての宝石が壁のようになって…、その人の目がキラキラと輝いて、「向こうに行ってから手に入れるわ」。聖書はうまい具合に出来ていて、どこを採っても誰かの希望に繋がるようになっています。
 最近は割にはっきり告知をするようになり、ご自分がいつ旅立つかわきまえておられる方が多くなりました。「色々お世話になりました」というご挨拶に対して、私はこちらの最後の希望をお話しします。それは、信者さんの場合はもちろん確信を持って「また天国で会おう」。信者さんでない場合は「私はあなたともう一度お会いしたい、という願いがある」。この再会の約束は、今まで一度も断られたことがありません。ある六十代の方に、もう最後という時「また天国でお会いしましようね」と言葉を交わしましたら、「天国のどこで?」。そこで私はやむを得ず、「天国のメインゲートで」と言いましたら、妙に納得。「天国のメインゲートが、紀伊国屋の前のように混雑していたらどうしょう」とおっしゃった方もいました。自分の死を考えるのはイマジネーション。生きますか、死にますか、と問われれば、それは生きたいと答えるのが普通です。ですが、一つの道しか残されていないと分かった時、皆さんはどういうふうに自分の死を見つめますか?

「本当の幸せは心の自由」
 次に皆さんにお話しするのは、こんな状況でどうして命を輝かせることが出来るの、と感じさせる患者さんとの出会いです。Aくんは、当時二十歳。手術不可能な脳腫瘍が段々と大きくなり、唾液も飲み込めず、四肢には麻癖が起こってきました。ある日、彼は洗礼を受け、動くことも出来ない不自由な生活にもかかわらず「胸がビシビシと張り裂けそうなほど、嬉しい」と叫んだのです。不思議なことですが、病床洗礼を受け、教会に行く間もなく旅立たれる方のほうが、生き生きしていて、恵みが多く、信仰の成長が早いように見えます。なぜ信仰の喜びが深いのか?亡くなる一ヵ月前、理由がわかりました。「沼野さん、人間の本当の幸せって、心が自由なことだ」と彼は言いました。本当は退院していく他の患者さんが羨ましくてたまらなかった。ある日、ふっと気が付いた。どうして喜べる人と一緒に喜べないのか?身動きも出来ない身体であったがゆえに、彼は自分の心の醜さをしっかりと見つめました。この醜さのために、イエス様は十字架に架かって下さった。イエス様が新しい命で僕を生かして下さるのなら、喜べる人と一緒に喜べるようになるのではないだろうか。その願いと希望を持って、イエス様を救い主として受け入れる決断をした、と彼は言いました。「僕は何も完壁になったのではない。でも今の自分は確実に違う。それは毎回退院者が出るたびに、僕は心の中でこう言えるようになった。『イエス様、心の底から本当に良かったねと言える力を、僕に与えて下さい。僕と一緒にあの方の退院を祝福して下さい』こう祈れるようになった自分は、やっぱり違う。祈れるようになった自分の、心が解放され自由であることが、どんなに幸いであるか、これは、心の自由が人とのかかわりの中でどんなに大事な要素であるか、を教えてくれた素晴らしいケースでした。本当の人間の幸せは、心が憎しみ、妬み、怒りから解放されていることなのですね。
 では、イエス様の安らぎを運ぶ器になるには、何が大事でしょうか。聖書には一貫して神様の約束が書かれていますが、それは「私はあなたと共にいる」という言葉です。今から約十年程前、ベルギーを訪ねた時、私は言葉がわからずポツンと一人になりました。孤独というのは無人島に行って感じるものではなく、群集の中にいる時に感じるものなのです。涙にくれている私に、何ともいえない優しい微笑をくれたのは、現地の五歳ぐらいの可愛い女の子でした。私も微笑を返す。そうしているうちに、涙が乾きました。その時、「共にいてくれる」というのはこういうことかと分かりました。この女の子は存在感をもって「あなたは一人ぼっちではないよ」というメッセージを私に届けてくれました。この存在感の温かさは、表情の温かさ、微笑みです。彼女はイエス様の安らぎを見事に運んで来ました。

食を共にし親しいかかわり
 安らぎを届けるのに大切なもう一つは、「聴く」ということですが、大事な会話ほど前置きはありません。「あの、ちょっと」と言われる。この「ちょっと」の中に大きなことが隠されている。余命いくばくもない患者さんが「アイスクリームを買ってきて欲しい」と言われました。私にも一つどうぞとおっしゃる。月曜日の忙しい時でしたし、ベッドサイドではと遠慮したのですが、「ここで食べて」とおっしゃる。そこで私は大急ぎで、飲み込むようにして頂いた。そしたら、この患者さん「今まで色々お世話になりました。本当は一緒に外食がしたがったけれど、それも叶わぬことになってしまいました。同じ物を一緒に頂くことは、大変親しいかかわりをさせて頂いた友情のしるしですものね」とおっしゃった。イエス様は罪人と食を共にしながら、この人達と私は非常に近い関係にあるということをお示しになった。最後の晩餐にもその思いは託されています。私は心の底から、この患者さんと一緒にアイスクリームを食べて良かったと思いました。
 最後になりました。私はイエス様の「すべて重荷を負って苦労している者は…」という言葉の外に、もう一つの柱を心に持って仕事をしています。これはカトリックのヨハネ・ボスコという十九世紀イタリア人神父の言葉です。「子どもを愛するだけでは足りない。愛を感じさせなくてはならない」。私はこれを「病める人を愛するだけでは足りない、愛を感じさせなくてはならない」と受け取って仕事をしています。愛するだけでも足りません。祈るだけでも足りません。愛を感じさせなければならないのです。愛を感じさせられるような言動をもって、イエス様の尊い慰めと癒しの器にならせて頂きましょう。

(文責・編集部)