大石邦子さん講演

生きること、愛すること
      −車椅子から語る熱い思い−

 以下は大石さんの講演要旨。
 今日は恐れ多くも、こうして祭壇に車椅子ごと上げて頂き、十字架の前でお話をする機会を与
えられ、心から感謝します。こういう会でのお話は初めてだものですから不安でしたが、後ろに
ある大きな十字架が私を抱きとめて下さっている、と感じます。私の話なんて、どうってことあり
ません。ただ今日まで生きてくる中で、この心と体で感じとめてきたことについて、一言でもい
い、皆さんの心に届く言葉があれば嬉しいなあと思います。
今日の午前中、私は礼拝に与らせて頂きました。この祭壇の前に小さな子どもたちがひざまず
いて牧師先生の祝福を受ける姿を拝見し、胸をつかれました。私たちは見たり聞いたりしたこと
は、いつか思い出すことが出来ます。私も子どもの時、磔のキリストの絵を見たことがありま
す。裸同然で十字架に釘打たれ、首垂れている姿。子どもの目には、何でこんなに気持ち悪い
人が皆に拝まれるのか分かりませんでした。私が入った福島県の県立高校は、正門前に基督
教団の教会、裏門前に古いカトリックの教会があって、どの教室からも十字架が見えました。そ
の頃はまだ信仰の心なんて全くありませんでしたから、授業中に結婚式から出てくる綺麗な人
を見ていて、先生から注意されたぐらい。後々、その十字架が心の中にわき上がってくるような
日が訪れようとは思ってもいませんでした。
二十一歳まで、私も全く健康で、人並みの未来を夢見ていたような気がします。でもある日突
然、私の人生は一変しました。通勤で乗ったバスが、横町から飛び出してきた車を避けようと急
ブレーキをかけ、その時どこをどう打ちつけたものか、私は意識を失いました。病院で気づいた
時には、もう針の痛みも、お湯の温かさも感じない体になってしまっていました。衝撃にとどめを
さしたのは、排泄の機能もまた麻痺していることでした。一日六回、細いゴム管を膀胱に差し込
んでおしっこを採らなければ、生きていけない体だと知らされたのです。私はもう人間でなくなっ
たような思いがしました。
人間はなぜこんなになってまで生きなければならないのだろう。病室の天井を見つめながら、
毎日そのことばかり考えていました。体は焼かれるように痛み、麻痺は左半身から右半身、口
元にまで広がってきました。私は本当に疲れ果て、楽になりたいと思いました。楽になるには死
ぬ以外にない。そこで密かに痛み止めの睡眠薬を貯めて自殺を図りました。でも薬には致死量
があって、多くても少なくても死ねない。私は五日間昏々と眠り続け、薬物によって焼かれる苦
しみの中で目を覚ましたのです。そして僅かに残されていた健康な部分、この大切な視力を弱
めてしまいました。
この自殺に失敗した病室で、私は意外な光景を見たのです。それは父と母の嘆きでした。父は
私の頬をピタピタ叩きながら泣きました。「お前は死ぬことの方が楽かもしれない。でも生きなく
ちゃダメなんだ。いいか分かるか、お父ちゃんのためにもお母ちゃんのためにも、とにかく生き
なくちゃ」。また母はショックのあまり心筋梗塞を起こし、別の病院に収容されてしまいました。
親というのは、例えどんなに出来の悪い子どもでも、生きていてほしいと思うものなのだろうか。
この両親の姿を見せられた時、私は初めて「生命を結ぶ愛」というものの存在に気づかされた
ような気がします。生命は決して単独では存在し得るものではなかった。父や母や兄弟、おじい
ちゃん、おばあちゃん、親友、恋人、そうした一つ一つの生命がお互いに深くかみ合いながら繋
がっていて、その中の一つが傷つくということは、他の生命も同時に傷ついてしまう。そうした生
命の絆をこそ「愛」と呼び、本当の意味での「生命」と呼ぶのだと気づかされたのです。私はもう
死ぬことも出来なくなったと思いました。

 イエス様の言葉に心の重りとれて

 生きるに生きられず、死ぬに死ねない、そんな精神的に追い詰められた日々が始まったので
す。私が倒れ、母が倒れ、父が倒れ、そうなると私の家はもはや呪われた家。いろんな宗教の
人が病室に来て、私の枕元で言いました。「それは前世の因縁のたたり。今断ち切っておかな
ければ、来世でもまた同じような体になる」と。心弱っていると、それは本当に思われます。そん
な時、私は高校の窓から見た十字架、その上で磔になっているキリストを思い出したのです。あ
の人はどんな悪いことをして磔になったのだろうと。ところが、キリスト教の勧誘の人は全然来
なかった。私は、それまでに見聞きした聖書の言葉を思い出し、十字架が欲しいと言いました。
 

 手に握る十字架の像これにさへ釘は打たれて両掌つらぬく

 溢れるようにこぼれ出た、キリストを歌った初めての歌です。私はその頃しきりにキリストの掌
の釘を抜く夢を見るようになりました。はっと目覚めると全身汗びっしょり。胸がドキドキして、釘
を抜く瞬間のところでいつも目が覚めました。

 磔のイエスの釘をぬきし夢醒めてしばらく動悸がやまず

 そんなことを、私は胸の上に開いたノートに書き綴るようになりました。十字架の上で首垂れ
て力ない、あのキリストの姿が私の心の中で膨れ上がっていったのです。あの人になら、私の
このやりきれなさ、無念さを分かってもらえるかもしれない。あの人はどんな人なのか。私は隠
れて少しずつ聖書を読むようになりました。そして私の人生を百八十度ひっくり返す言葉に出あ
ったのです。今日の伝道集会の案内にある一文、ヨハネによる福音書九章一―三節「さて、イ
エスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ね
た。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人です
か。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪
を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」これは今まで聞かされてきた
前世の因縁、親の因果などとは全く正反対の言葉でした。歩けなくなったのは罪の結果ではな
い、生きていて良いのだ。この言葉に触れた時、私は心の重りが下り、本当に良かったと思っ
たのです。
 キリストと同様に、私に生きろ、頑張れと言い続けてくれたのは友達です。この世の中に一人
でもいい、深い信頼の中で心を分かち合える人があったなら、私たちはどのような境涯に陥ろう
とも、きっとそこから立ち上がれる。私は今そう思っています。

 魂を揺さぶられた無償の友情

私が何度目かの重態に陥った時でした。意識混濁状態の一夏を乗り越えた時、私の頭は男の
子のように坊主頭になっていました。長い間の熱のため、僅かに体を動かすだけで鼻から口か
ら出血し、体重も三十キロを割り、窓の光さえまぶしくなっていました。薄暗い部屋にいるこんな
患者は、誰が見ても気持ち悪かったろうと思います。お見舞いの人たちが病室に入って来ると、
一様にハッと立ちすくむ様子が私には分かりました。
ところがある土曜日、ちょうどお昼頃にやって来た一人の友達は、私の顔を見ても驚かない。
彼女は、「クーチャン、輸血や点滴やったってダメなのよ。口から入れる方がずーっと力になる
んだから。一口でいいから食べてみ」と言って、重湯を私の唇に何度も押し当てたのです。そう
こうするうちに、彼女は突然、私の唇に触れていた重湯を自分で食べ、そして自分で食べたス
プーンでまた重湯をすくい、私の唇に押し当てたのです。私はこの時ほど、友情の有り難さを、
魂の奥深くから揺さぶられるような思いで感じたことはありません。
 そうしてまた、大切な婚期を遅らせてまで、同級生のために何とかしようと気遣ってくれた別の
友達。「私はクーチャンが退院するまでは結婚しない」と。すべてを失い、廃人同様になってしま
った人間に対する無償の友情。私はこの世の中にこれ以上大きな愛があるだろうかと思いまし
た。私はこうした友達に支えられながら、何とか人生の冬をくぐり抜けることが出来たのです。
 そして今ひとつ、私の心を強くとらえているのは、共に長い闘病生活を送ってきた人たちです。
会津若松市の病院に七年半、リハビリのために静岡県熱海に五年間と、私には十二年六ヶ月
の療養期間がありました。生まれてから中学生になるぐらいまで、ずっと寝ていたことになりま
す。その間、私はたくさんの若い人たちとの別れを体験してきました。それはどんなに生きたい
と願っても生きられなかった人たちです。彼らのことを思う時、今こうして生かされている私たち
が、生命を曇らすような生き方だけはしてはいけない。そんなふうに思います。
 私は物を書くなんてことをしていますが、その私の本をお金を出して買って下さる方がいると
いうこと、どう感謝してよいかわかりません。生きてみなければ分からないことって、あるんだな
あと思います。だから、学校などでお話をさせていただく時も「十五歳ぐらいで自分の人生の結
論、出さないで」と、子どもたちに祈りにも似た気持ちで話します。苦しい時、どうしてよいか分
からないような中にも、神様はきっと逃げ道を用意して下さると聖書にも書いてある。だから、子
どもたちには「逃げないで、この苦しみを一つ乗り越えると、それは必ず大きな力になるから。
その苦しみがきっとあなたを育て、輝かせてくれるから」と、そんな話をします。

 死んでから後まで支えてくれる母

 こんな大そうなことを言いながら、今なお、私は自分の心がコントロール出来なくなることがあ
ります。年老いた母に八つ当たりして、母を悲しませたことが何度もありました。母は凄まじい執
念で私のために生き続けてくれました。母が生きているうちにこの深い愛に気づいていたなら、
もっと優しい娘であっただろうに。失ってから初めて気づいたことが、あまりにも多過ぎました。
健康であることの凄さ、歩けること、手が動くこと、冷たい物を触れば冷たいと感じる知覚を持つ
こと、一人でおしっこが出来ること。これらの大きな幸せを、私は失ってみるまで気づかないで
生きてきた。ですから、失う前の人に伝えたい。親も生命も健康も友情も、そしてこの世の平和
も、失ってしまってからでは遅いんだということを。
 去年の冬、会津は大雪でした。私は母に会いたくて会いたくて、夢でもいいから母に会いたい
と思いました。外を見ると、二メートルぐらいの雪の上をさらに雪が吹きすさびます。もう疲れ
た、限界と思いました。その夜、母がいたんです。紬のお対の着物を着て、膝にちょこんとカー
キ色のリュックサックを抱いて。私はもう嬉しくて嬉しくて、駆け寄りました。膝上の小さなリュッ
クサックを私が持とうとした瞬間、それは鉛の塊のように重く、私は前につんのめりそうになりま
した。ようやくリュックを持ち上げて振り返った時、母は私の一番好きな笑顔をして立っていまし
た。たったそれだけの夢でした。でも私は母に会えたということで、ああまた一年ぐらい頑張れる
かなあと思ったのです。親というのは死んでからでも、子どもを支えるものなんですね。
私の所にやって来る傷ついた子どもたち、闇を抱えた子どもたちを前にする時、私は私の悲し
みのために泣いてくれた母を思い出します。障害があってもなくても、人生には幾たびか自分
の心を分かってくれる人が欲しい、そう思う時があります。不幸にして親が心を注ぐことが出来
ないなら、周りの大人が、地域の人たちが子どもたちを守っていかなければと思います。まだ身
動きのとれなかった頃、私にはそうした心を分かってくれる人との出会いがありました。

 悲しみを看護婦さんは共に背負って

 桜の季節でした。会津には鶴ヶ城というお城があり、夜桜の季節になるとぼんぼりが灯って桜
見物の人で賑わいます。私はもう自分の足では歩けないだろうことを察していました。私なんか
生きていても生きていなくても、世の中少しも変わりなく動いていく、そんな落ちこぼれ感にさい
なまれて寝ている私の下には、のどかな夜桜見物の人の足音。そんなある夜でした。色々考え
ているうちに一気に頭に血が上って、何がなんだか分からなくなってしまったのです。私はあら
ん限りの大声で泣き叫び、手当たり次第に物を投げつけて大暴れをしました。深夜のことでした
から、その物音は病棟中に響いたと思います。看護婦さんが飛んできて「どうしたの、クーチャ
ン」と言ったきり、茫然と立ちすくんでいます。その看護婦さん目がけても物を投げつけます。投
げつける物がなくなると、看護婦さんの着ていたカーディガンを引っ張ったり、叩いたりして泣き
叫んだのですが、彼女は何も言わない。ただじっと私を見つめているだけなのです。どうして怒
らないんだと思います。そのうちに私はもう精も根も尽き果てて、声も涙も出なくなってしまいま
した。そんな私を見届けるように看護婦さんはおもむろに床に膝をつくと、私の頭を抱き寄せる
ようにして涙を拭いてくれました。その時です。「ちょっとだけ、桜を観てこようか」。それは全く思
いがけない言葉でした。看護婦さんは私自身も気づかない心の向こうを見通すようにそう言う
と、ヨレヨレになったカーディガンを私に着せ、私を背負って真夜中の細い階段を下りていってく
れたのです。私はその看護婦さんの背中の温かさを、今も忘れていません。ああどうしてあん
な馬鹿なことをしたんだろう。看護婦さんの背中の温かさが、私にそう思わせたのです。青春時
代を病み、障害を背負って生きていかなければならない私のこの悲しみ、空しさを、この看護婦
さんは共に背負ってくれたのです。私の心を分かってくれる人がいる。そう思えることが、その
後生きていく上でどれほど大きな力になったか分かりません。一人の人間として本当に大事に
されていると実感する時、人はきっと変わっていきます。
 私は神様にお目にかかったことはありません。でも神様は絶望の中にあった私に、父の姿、
母の姿、友達、看護婦さんの姿を通して、頑張れと、生命ある限り生き通さなければいけない
のだと、言い続けて下さったような気がしてならないのです。これからも、あの力なく首垂れる、
私たちのために十字架にかかって下さったイエス様に常に支えられているということを信じて、
生きて行きたいと思っています。   
(文責・編集部)




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