2014年5月18日

「主の名によって」

ヨハネによる福音書14章1-14節

本日の福音書は、ヨハネ版の最後の晩餐、そこには主イエスが弟子たちの足を洗うできごとが記されています(13章)。次いで裏切りの予告、新しい掟、ペトロの離反の予告があり、14章からは、今回のようにトマス、フィリポ、イスカリオテでない方のユダとのやり取りを記しながらも、ほぼ独白というかたちで最後の説教が15章、16章と続きます。17章では、この世に残る弟子たちのために祈って下さるのです。この祈りの延長線上には、今生きる私たちのために既に主イエスが祈っていて下さったものと言えるでしょう。

想像を膨らませてみますと、主イエスと3年を過ごしたトマスたちではあったとしても「今からあなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と言われても、戸惑ったことだろうと思います。フィリポには「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。・・」といわれても、ユダヤ人にとって、神を目で見ることなどとは想像できないことでしたから、何のことか分からなかったと思います。それが、十字架の出来事の後に、復活の主イエスと出会って、それまでの疑問が雲散霧消したということだろうと思います。そして、その時言われたように、主イエスの名によって祈り、復活の証人となって福音を伝えたのでしょう。

トマスは他の弟子たちが復活の主イエスに出会ったことを伝えた時、自分は「手の釘跡やわき腹の傷に触れてみなければ決して信じない」と言います。しかし、疑い深い彼にも主イエスは顕現し、「触れ!」と命じられるに至って、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。4つの福音書の中で、主イエスに対して『私の神よ!』(20:28)と述べているのはここだけなのです。福音書記者聖ヨハネは、トマスの口を用いて“信仰告白”をしているのです。

そういうトマスなればこそでしょう、伝説ではインドに伝道し、インドの守護聖人でもあります。以前おりました教会に、お母さんが日本人で、お父さんがケララ州出身のインド人の方がおられました。お聞きすると、年に1回か2年に1回、インドから主教さんが訪ねてこられていたのです。しかし、家の真向かいに住みながら礼拝に与れないのはもったいないと、思いきって聖公会の礼拝においでになり、転籍して来られたのです。その人が属しておられた教会が“マル・トーマ教会(シリア正教会系)”で、聖トマスが伝えたといわれる教会だったわけです。聖公会とは“フル・コミュニオンの関係”といいまして、どちらの信徒が礼拝に出ても、陪餐が許される関係が築かれています。この日本はキリスト教を西洋経由で知りましたが、この世界には様々な教会、特に東方教会系のキリスト教が数多くあるのです。因みに、桃山学院大学チャプレン時代に、インドネシアが政情不安で、夏のインドネシア・ワークキャンプが延期となって時間が空き、1998年に1人で1カ月の熟年向け語学研修に行ったことがあるのですが、丁度10年に一度開催されるランベス会議と重なっていたので、土・日にかけて滞在先の英国南西部の町ブライトンからカンタベリーを訪問した時、会議に来られている正教会の主教とおぼしき人と出会って話しましたら、このマル・トーマ教会の主教さんで、ニューヨークから来られた方でした。米国にも大勢のインド系の信者さんがおわれるのでした。

今回の福音書に名が出てくるフィリポは、使徒言行録8章で「フィリポとエチオピアの高官(宦官・かんがん-女王に仕えるために去勢された男性)」という項目のところに登場しています。フィリポとその宦官との不思議な出会いが、エチオピアにキリスト教が伝えられるきっかけとなったのでしょう。エチオピアもまた、エチオピア正教会が広く伝えられています。ポンテオ・ピラトの妻は、エチオピア正教会では聖人扱いだという文面に出会ったことがあります。

トマスもフィリポも、主イエスと一緒だった時にはわからなくとも、十字架の死を経、復活の主イエスと出会って、遥々遠い国にまで命がけで福音を伝えることとなった。主イエスが言われた「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」という言葉のように、彼らは大きな働きをしました。時代を経て今生きる私たちですが、私たちなりに神様の御用をしたいと思います。