2014年6月15日

「派遣」

マタイによる福音書28章16-20節

本日は公会暦で“三位一体主日”。大阪聖三一教会としては教会創立記念日としています。本日指定の旧約聖書は創世記1:1-2:3となっています。神による創造物語が記されているところです。「初めに、神は天地を創造された。・・」で始まりますが、“初めに”のヘブライ語“ベレーシース”とは“根本的に言えば”という意味合いのある言葉です。まさに、根本的に言えば、神が天地を創造されたということが述べられるのです。もう30年も前になるでしょうか、未信徒カップルから結婚式の依頼を受け、教会に来ていただいて結婚準備のお話しをした時、この創世記を読んでいただきました。聞けば彼は大学で地球物理学を研究している人だったのですが、こんな古文書なのに、もちろん詳細は違うけれど、地球が誕生していった過程が面白いほど似ていると感動されていたことを思い出します。根本的には世界は神によって創られた。創られた全てを“良し”とされた神は、創造の最後に人を造られました。神はご自分を認識できる存在として人をお造りになりましたが、人は傲慢にも神と同等になろうとした。こうして神と人との信頼関係が崩れた。その関係を回復するために神はアブラハムを選び、その子孫に働きかけ、預言者を送られた。それが旧約聖書の話です。

それでも人の傲慢さはとどまるところを知らず、遂に神は人となってこの世界に来られた。それがイエス様です。そのイエス様を、人々は十字架につけた。神の側からすると、そこまでご自分の身を晒して犠牲となられ、人間の愚かさを徹底的に知らせて神の元に立ち戻らせようとされたのです。イエスは十字架に死に、三日目に復活し、40日にわたって弟子たちに顕現し、天に昇られ、その10日後に聖霊を降された。それ以後、私たちは直接にはイエス様のお姿を見ることはできないけれども、「父なる神」、「子なる神イエス」、「聖霊なる神」は、“お一人の神”として、今も時と所を越えて生きて働いてくださっている。その信仰告白が「三位一体の神」です。

そこには壮大な神様の創造のドラマがあり、今私たちもそこに加えられて生きている。そのことを今日はしっかりと心に留めたいと思います。

本日指定のマタイ福音書は、4つの福音書中3番目に、ユダヤ人向けに書かれたものですが、ユダヤ人の中心地エルサレムではなく、辺境の地・ガリラヤで弟子たちへの派遣命令が出されているのが興味深いところです。紀元80年頃の原始キリスト教会が、組織化されていく過程の中で、キリスト教への入会式である“父と子と聖霊の名による洗礼”が強調されているのも特徴的です。マルコ、ルカ、ヨハネではこういう書き方はされていません。いずれにせよ、著者自身が受け止めた主イエスの思いを反映させて福音書は執筆されており、私たちはその思いをしっかり受け止めることが肝要だろうと思います。

さて、先週は大阪教区・京都教区合同教役者会が京都北部で行われました。合同で開催するようになって10回目となり、教役者間では違和感のない交わりが持てるようになっていることを感じました。教区合併が推進の方向で進む中、今回は東京教区の竹内謙太郎(退職)司祭を講師にお招きしての集まりでした。中心テーマは「教区とは何か」というものでした。教会の歴史を振り返る貴重な機会でした。

キリスト教は3世紀まで弾圧の歴史を歩みましたが、弾圧に反比例するかのように信徒が増し、これ以上弾圧すれば却って大変な事態になることを先読みした皇帝コンスタンチヌス(皇帝はこの時、ローマから今のイスタンブールに移り、自分の名前を付けてコンスタンチノープルとした)が紀元313年に懐柔策として「ミラノの寛容令」を出し、公認の宗教となります。また教会の危機の中で、紀元325年にはニケヤで公会議を開催させ、「ニケヤ信経」を制定します。この公会議には、ローマ管轄下の主教たちは数名しか参加していなかった。当時、欧州西方地域は、ゲルマン民族の侵入に晒され、城壁に囲まれた都市を守るために、皇帝に替わって役割を担うことになっていったのが教会であった。

そうした政治・経済の中で起こってきた領域的な概念が「教区」である。一方、“主教”のギリシャ語「エピスコポ」にある意味合いは“食卓の主催者”で、“執事”のギリシャ語「ディアコノ」は元来“食卓に仕える者”であった。司祭(長老)のギリシャ語「プレスビテロ」は主教の代理というものであった。主イエスの、弟子に対する委託で大事なものは公生涯の最後に「最後の晩餐」を制定し、卑近な言い方をすれば「一緒にメシを食う」関係を作り出していくことであった。今一度私たちは、その出発点に立ち戻って考える必要があるのではないか。概略、以上のような示唆に富む話でした。

今回の福音書は“洗礼”が強調されているものですが、それにも増して、主イエスご自身が犠牲になって私たちの贖いとなって下さったことを聖餐式ごとに象徴的に現すものですが、私たちが今置かれたそれぞれの場所で、「どのように一緒にメシを食っていける関係を作っていけるか」が問われているように思うのです。