2014年7月20日

「めげずに歩む」

マタイによる福音書13章24-30、36-43節

1980年代後半、東豊中聖ミカエル教会で牧師をしていた頃のあるクリスマスのこと。“書置きとともに”門の前に子犬が捨てられていました。「引っ越しをすることになりましたが、引越し先では犬が飼えません。どなたか育ててやって下さい。名前はモモです」。身勝手な人もいるものだと、少々腹が立ちましたが、小学生5年と4年の上二人の子どもたちから「飼ってほしい。自分たちが世話をする。散歩もする」とせがまれ、それは無理と思いながら(実際そうでしたが)、子どもの情操教育のために飼うことにしました。「クリスマスに来たから“クリちゃん”にしようか」と提案しますと、「“モモ”でええやん。お父さんは本名で生きることのできる社会にせなあかんって、いつも言ってるやん!名前がもう付けられてるんやからそれでええやん」と、1本取られました。丁度、ミヒャエル・エンデの「モモ」が読まれていた頃で、結果的には名前通りの存在になりました。

最初は寒かろうと、玄関の土間で飼い始めますと、桟敷に上がってきます。何度も叱って制止している時、唸り声を上げた。これを赦してなるものか。小さい動物の頭を叩くと、ダメージが大きいと聞いていたので、お尻を叩こうか。いや、手で叩くと手が罰の道具と理解するかも?そんなことを瞬時に考え、そこで履いていたスリッパを手にとって、お尻をバシッと叩いた。見ていた妻から、「それ、牧師のすること?」って冷やかに言われたことを思い出します。これって、犬の飼い方の文化が現れているとお思いになりません。西洋では靴の生活で、家の中にも動物が入るので、動物もそんな叱られ方をすることはないだろうと思います。

前置きが長くなりましたが、イエス様の話というのは、その時代の人には“フンフン”とうなずけるものだったでしょう。前週は“種蒔きの譬”でしたが、日本では石地や茨の生えるところに種を蒔くような農業はしません。効率よく真っ直ぐに蒔きます。イエス様の時代とその地域では、粗い麻袋に種を詰め込んでロバの背に乗せ、ムチを入れて歩かせ、ポロポロ種が落ち、上から土を軽く被せた。大雑把な農業です。そういう文化の中での話です。それがあの種蒔きの譬の前提です。

今日の聖書も種蒔きにまつわる話です。麦をどう育てるかを私は知りませんが、ここでは農夫が良い(麦の)種を蒔いた。芽が出て、実って来ると、毒麦も現れたというのです。農夫たちが眠っている間に、敵がやってきて毒麦を蒔いたからです。農夫は主人に、「(毒麦を)抜き集めましょうか」と問うたら、「いや、毒麦を集める時に、(良い)麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまでそのままにしておき、刈り入れの時に選別しよう!」という訳です。これも大雑把な農業です。

これを読みながら、今の日本の状況が脳裏をよぎりました。“何と毒麦が生え育ってきていることか!”。

実は先々週の土曜日、高校卒業50年の同期会がありまして出席してきました。思えば今年4月以来、69歳を迎えている学年ですが、この間日本は戦争で誰をも殺さず、殺されずに生活して来れた。その前に国内外で数知れぬ犠牲者を出し、その犠牲の元に平和が築かれてきた。この69年で様々な努力を積み重ねて、良い方向へ歩んできた。世界も注目している。しかし、気が付けば何と毒麦の多く生えていることでしょう。今日の譬を、私は、毒麦が生えてきているからと悲観的にならずに、“めげないで良い麦の種を蒔き続けよ!”と言われているように受け止めました。

旧約聖書が示すには、人間は被造物の中で最後に造られた。まさに万物の霊長です。本領を発揮しないといけません。確かに人間も動物の一種ですが、“けだもの”的な人間では神様に申し訳ないのです。“けだもの”は己のためにだけ生きる。イエス様の示されたことは、己を、己自身と他者に献げて生きること、共に生きることでした。競争原理ではなく、それを越えてこそ、この世界が人の住むべき場所となるのです。しかし、どうでしょう。核を使うなんて、環境破壊の最たるものであることを知ったのではなかったでしょうか。プルトニウムを再生産できる原発を早く再稼働させようと力を注ぐ。それって、原爆をつくれる国にしておくことを意味します。

私たちの目指すことは直ぐに芽がでないかも知れません。私のつたない経験で、歴史ある児童養護施設で、実は問題があることを知り、改善を訴えましたが、なかなか実らなかった。けれども思わぬ出来事が発生した時点で、私の訴え続けていたことが施設を改善していく力に用いられた。「めげないで蒔き続ける」こと。聖書の「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。(ロマ12:21)」を心に刻みつつ歩みたいと思います。