2014年9月21日

「視点の転換」

マタイによる福音書20章1-16節

イエス様は「天の国」について話される時に“ぶどう園”での出来事を引用してお話をされました。当時、この話を聞く人々にとっては身近な素材でした。ぶどうの実が豊かになって、いざ刈り入れという時、大勢の労働者が必要でした。主人は早朝に出かけで行って、1日1デナリオンの約束で労働者を雇い、ぶどう園に送りました。9時にも行きました。12時、そして3時にもまだ雇い手がない人を雇いました。5時にも行ってみると、仕事にあぶれた人がいたので雇いました。一日が終わり、主人は監督に『最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言いました。5時に雇われた人が1デナリオンでいけば、最初に雇われた人は“もっと貰えるだろう”と期待するのは人情です。ところが支払額は同額だった。彼らが不平をいうのをうなずく私がいます。しかし、主人の言い分はもっともです。5時の人には1日1デナリオンの条件で雇ったのですから不正をしているわけではありません。ここには主人と私(たち)との視点の違いがあります。現代を生きる私たちには“等価交換”の考えが浸透しています。しかし、この主人は違います。仕事がしたくても、雇い手がなく、明日の糧を心配して不安に過ごす人の痛みを深く理解しているのです。私たちは最後に雇われた人の立場でこの個所を読んでいるでしょうか。どの時間に雇われた労働者の立場で読んでいるのでしょうか。

もう3、40年前になるでしょうか、何かの所用で釜が崎を乗用車で通り合わせたことがありました。朝の6時前でしたが、「愛隣センター」と言ったでしょうか、それは大勢の労働者が集まっており、周囲にはワンボックス・カーが取り巻いていました。そこで若い元気な若者が次々雇われて、車に乗せられて職場に向かうのです。昼ごろに通りますと、初老の人たちが取り残されている。今回の聖書の個所が現代によみがえってくる思いをしたのを思い出します。

私に取りまして、神学校卒業後の最初の赴任地である聖贖主教会・博愛社は、物事を深く受け止めることを促していただいた働き場となりました。独身時代の2年間を、男子高校生が住まうホームの舎監役で過ごしました。高校に進むことができるのは、多少勉強ができる一部の子どもでした。中学生になるとやんちゃが過ぎるような子どもも出てきます。その頃の博愛社の風潮は、「勉強出来ない子に無理に学校やらせるより、社会に出て働かせるほうが良い」というものでした。それに乗っていた私もいたことを振り返り、悔みます。後に思うようになったのは、出来ない子どもほど手元において、ランクが下であろうと、とにかく高校まで卒業させる。働きだしても、安定して勤められるまで見守る、というものに変わりました。

気付かなければ、“世の中には、貧富の格差ができるサイクルがある”と私に明確に気付かせてくれたのは、「被差別部落の差別問題」を学んだことによります。カトリック信徒で教師をされていた方のお話が印象に残っています。信徒として、教会へ来ていただきたいと、教会行事などを印刷したビラを近隣に配布した。ところが、全く反応がなかった。気が付けば配布先が被差別部落で、親たちが字が読めないことに気付いていなかったのです。子どもが親から絵本を読んでもらえないのです。言葉づかいが悪いのはなぜか、それは“談話語(親しい者同士での会話)”しか知らない。字が読めないことが輪をかけて、会話語(フォーマルな会話)へと進まなかった。スタート時点で遅れている故に、学校の勉強についていけない。上の学校へ進めない。自分が望む安定した職業へ就けない。概して結婚が早くなる。若くして親になり、子育てをする。その循環があるというわけです。

私たちは聖書でイエス様の話を読みながら、現代にそれをあてはめて、深くこの社会に神様の御心がなされるように努めたいと思います。