2015年4月5日

「ガリラヤで会おう!」

マルコによる福音書16章1-8節

私は大学に入学して以来、今日まで半世紀、合気道を続けています。毎年3月には大学合気道部の「追い出しコンパ」などに顔を出します。卒業する学生がまだ新入生だった頃を思い出しますと、挨拶をする卒業生たちが雄弁に語る姿に感慨を覚えます。それは、彼らが、身体で会得した自分自身の成長、かけがえのない友人たちとの出会いがあったからだと言えます。そういう彼らに関わりながら、私もエネルギーを戴いていることを思います。私が学生だった昔に比べ、気の毒にも今は就職活動に追われ、大学4年とは言え、大学生活は正味3年だなと思います。それでも、合気道部の学生たちは3年生になると審査を受けて初段になります。実は合気道では、“初段からが合気道入門だ”と言われはしますが、3年間やるとちょっとは格好になってきます。

この3年という数字も面白いもので、イエスの弟子たちも3年間、師イエスに付いていたわけです。弟子たちはこの世的な栄達を求めていたことも随所にうかがえますが、それでも3年間寝食を共にしました。最後の最後まで、信じて従っていたことでしょう。しかし、師イエスが十字架刑になった時、師を見捨てるのです。ところが、それで終わらなかった。復活されたイエス、死で終わらない方に改めて出会った。その体験がそれまでの3年間をより深い理解へと進めた。圧倒的な神様の力・聖霊をいただいて雄弁に主イエスのことを証しし出したのです。

今日の福音書は、マルコ16:1-8ですが、ここでは女性の追随者たちが、まともな葬りがなされなかった師イエスのために、香料を携えて墓にやってきた。ところが墓は既に石の蓋が開けられており、若者つまり天使が立っていて、彼女たちに告げたのです。「あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。・・さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。・・そこでお目にかかれる』と」。

エルサレムという注目される場所ではなく、むしろ辺境のような場所ガリラヤでお目にかかれるというのです。

例えば、私にとって、最初の赴任地・聖贖主(せいあがないぬし)教会と博愛社は淀川区の十三(じゅうそう)でした。振り返ってみれば、私の牧会の原点はそこです。建物は立派でも信徒数は本当に少なく、今まで知らなかった児童養護施設での生活は私のガリラヤであった気がします。そこで真剣にものごとを考える機会が与えられました。楽しい町でした。次は千里中央に近い東豊中聖ミカエル教会と保育園、そこは高級住宅地でしたが、園児が少なくなってきていて、もう止めようかという保育園を再生していく働きが待っていました。次はキャンパスを全面移転したばかりの桃山学院大学でしたが、何と言ってもインドネシア・バリ島の僻地でのワークキャンプという出会いの場を与えられました。そして次は鶴橋でした。ここでは多くの在日の人たちとの出会いをいただきました。「この辺、空気が濃いですね」と言った学生の言葉をもらったことがありますが、確かに人間関係も濃いところでした。

これらは“私にとってのガリラヤ”だったと思います。豊かな出会いは喜びとなります。生き方が変えられていきます。失敗しても、くじけずにやり直せる力がいただけます。自分が神様に用いられる喜びを感じられるようになります。生きておられる神様に出会えます。今、このイースターの時、大阪聖三一教会に連なる私たちは、“私たちにとってのガリラヤ”を見出しでいきたいと思います。