2015年5月3日

「安心して生きる」

ヨハネによる福音書14章15-21節

“親思う心に勝る親心”これは今、NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で出てきます吉田松陰の歌で、なかなか味わいのある言葉です。子どもが親のことを心配するようになる以前から親は子どものことを気遣いつづけている、だからこそ子どもは育っていくのだと思います。

これを神様と人との関係に当てはめてみますと同じことが言えるのではないでしょうか。今日指定の旧約聖書日課は、申命記4章32-40節ですが、40節に「今日、わたしが命じる主の掟と戒めを守りなさい(後略)」とあります。これは十戒をはじめとしたものを指しているわけですが、そこには“先行する神の恵みに応えて歩め”という根本精神があることを忘れては理解を誤るところです。イエス様がおいでになった頃、この精神が薄らぎ、細部に分かたれ、付け加えられた掟の方が強調されていた、それに対して、根本に立ち返り「神を愛すること、人を大切にすること」を強調されたといえるでしょう。

今日の使徒書は、使徒言行録8章26-40節です。12使徒の1人フィリポが、主の天使に導かれて、エルサレムからガザに向かうことになり、旅の途中でエチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官との出会いを描いた物語です。宦官とは、女王に使えるに際して、万が一にも男女間の問題を起こすことがないように、と去勢された男性です。その人も様々な事情と経緯があって宦官になる道に進んだことでしょう。宦官は女王の信頼を得れば、地位と財産を保持できるでしょうが、結婚をして子どもを持つことは考えられず、言うに言われぬ悲しみを秘めた人生でもあったことを想像します。

彼が旅の途上に馬車の中でイザヤ書を、声を出して朗読していました。それは53章にある「苦難の僕の歌」と呼ばれる部分です。「ここに表現されている、ある種哀れに思える人物像は自分のようなもののことではないか」そう思ったようです。馬車に乗り並行して走るフィリポは、そのエチオピア人に声をかけ「今お読みの個所を理解おできになりますか」と尋ね、「それはイエス・キリストのことを預言したものである」ことを伝えたのです。私たちの病を担って下さった方、イエス様がおいで下さったことを伝え、エチオピア人は洗礼を受けることになったのでした。今もエチオピアには古い伝統を持つエチオピア正教会がありますから、そのルーツにつながるのかもしれません。人生の途上に起こる不条理にも慰めがある、神様の恵みを知って勇気が与えられて生きる力が与えられる、そういうことでしょう。

今日指定の福音書は、ヨハネ版の“最後の晩餐”といえる、ヨハネが記す公生涯最後の説教の一部です。非常に心強い言葉が語られています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は真理の霊である」と。つまり聖霊を降すということです。更に「この霊があなた方と共におり、これからも、あなた方の内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と。

もう40年も前、神学校を出たての私が遣わされた教会・児童養護施設で、結婚するまでの2年間を男子高校生の舎監役として一緒に過ごしたことがありました。同じ建物にはほかに3つの児童ホームがありましたが、中学2年の生意気盛りの女の子が「ウチら、みなしごやねん」と言っていました。なんと返答すればよいのか困ったことを思い出します。ちょうど「みなしごハッチ」というアニメが放映されていた頃でした。施設で生活する子どもたちには辛く響いたことでしょう。それから10年程経った頃、その子に門の前で偶然出くわし、「子どもをここの幼稚園に来させんねん」と報告してくれて、安堵したことがありました。

イエス様は私たちを「みなしごにはしない」と約束して下さった、そして別の弁護者・聖霊を送り、その力によって私たちが生きることができるようにして下さったのです。私の今までの人生の中で、弁護者ならぬ“弁護士”を知っていることが何と有り難いことかを幾度となく味わわせて戴きました。聖霊はそれに勝るものでしょう。

イエルク・ツインクという心理学・教育学者が『幼児の心と対話』という本の前書きに、「宗教教育の目的は、聖句を暗唱させたり、お祈りができるようにさせるためではない。それも大切だが、何よりも大切なのは、人を愛することのできる人間を育てること、耐え難い苦難苦痛に耐え、それを克服する力を備えさせることである」と述べています。先行する神の恵みをしっかり心に焼き付け、弁護者・聖霊を遣わして下さっていることをよく心に留めて、人生の一歩一歩を歩みたいと思います。