2015年6月7日

「神の家族」

マルコによる福音書3章20-35節

本日の旧約聖書は、創世記3章の「蛇の誘惑」と題された有名な個所です。実のところこの個所は、長らく女性を差別する結果を生んできたところであることを否めない部分です。

創世記1-11章は、今は“創世神話”とされるようになりましたが、内容的に言えば聖書全体のプロローグ(序章)となっており、人間の本質を突く大変重要な内容を含んでいます。創世記は4つの資料から構成されていることは聖書学の発達から解明されております。神様の名前をエロヒーム(神)と記しているので頭文字をとってE史料(BC850)、同じく神様の名前をヤハウェ・エロヒーム(主なる神)と記しているJ史料(BC950)、があり、違う時代に形成されていた物語を編集した痕跡が明らかになっています。

それで、例えば1章27節では「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と書かれております。ところが2章7節では「主なる神は、土の塵(アダマ)で人(アダム)を形づくり(後略)」に続き、22節では「ひとから抜き取ったあばら骨で女を造りあげられた」となっています。3章はその続きで、狡猾さをイメージされた蛇が登場してきて、男ではなく女に『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』と誘惑し、女はそれに負けて男にも渡したので、彼も食べたのです。すると2人は神になるどころか、裸である自分たちに気づき、神に背いたことを知って身を隠した。こんな成り行きから女が誘惑に弱かった云々などと言って男性が自己を正当化することが起こります。

しかし、考えてみれば、食べるなと命じられたのは本来男だったのですから、女が間違いを犯せばそれを止めることもできたはずです。ところが神からの問いかけに、アダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答え、責任転嫁を図りました。神が女に尋ねられると、「蛇がわたしを騙したのです」と責任転嫁する。この姿は私たちの姿そのものです。このように神を神と認めず、自分が中心になる、人と人との関係が破れる。これを、最も根本的という意味を込めて『原罪』と呼ぶのです。私たちには思い当たるところが一杯あります。その意味において“私たちはアダムとエバの子孫である”のです。私たちは誰もここからは逃れられないのです。

こうして神から離れている私たちをもう一度神様との関係に取り戻すためにイエス様が来られた。それが福音なのです。E史料からすれば男と女は対等ということになります。原始キリスト教会では女性の活躍は目覚ましかったと思われます。

使徒言行録16章11節以下などを読むと、フィリピに住む紫布の女商人リディア(ルデヤ)などの活躍はパウロが支えられていたことを記しています。しかし、キリスト教会の体制が確立していくに従って、それを変えていくことが難しくなり、時代的制約も加味されて、男性中心的・父権制的になっていった面もあるでしょう。イエス様の福音は、それに先立つ時代を生きられていたわけです。

今日の福音書はマルコ3章20節以下ですが、マルコ福音書はイエス様による癒しの業が次々となされていくことが報告され、それも当時の宗教指導者たちの神経を逆なでするがごとく、労働を禁じられた安息日になされます。せっかく人助けをなさっているのに良く言われない。21節を見ますと、“身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。(中略)律法学者たちも「あの男はベルゼブルに取り着かれている」と言い(後略)”と記されています。それは当時の規範を越えて生きられていたからでした。しかしそれは、本当に神様が喜ばれることは何なのかを求め、生きられたからでした。

31節では、“イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた”のですが、イエスの反応は「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われているのです。マリア、ヨセフ、イエスは血の繋がりを越えた家族・聖家族と呼ばれました。イエス様からすれば、私たちのこの社会が、聖家族になることを願われているというほかはないのです。今日の特祷を吟味したいと思います。

「全能の神よ、どうかこの世界がみ摂理の下に安らかに治められ、主の公会がいつも喜びに溢れ、信頼と穏やかな心をもって神様に仕えることができますように。アーメン」