2015年6月21日

「向こう岸に渡ろう」

マルコによる福音書4章35-41節

本日の旧約聖書はヨブ記38章1-11節、16-18節でした。“義人が苦しむのはなぜなのか”を問う書物です。苦しみの中にあっても神に誠実に歩むヨブの姿に、勇気づけられます。ずっと以前に、ミッシェル・クオストというフランス人神父が著した本に『神に聴くすべを知っているなら』というのがありました。その中で「あなたは私の片方の車輪だ(中略)あなたがいて、私の働きが前進するのだ」というような趣旨の一節が頭に思い浮かびました。今回の個所は、神様が創造された自然の摂理の中に、恵みによって生かされていることを知らされる場面です。

使徒書はコリントの信徒への手紙Ⅱ1章:14-21でした。“キリストに結ばれた者は、新しく創造された者”とありますが、私たちはそのことを改めて自覚したいと思います。

さて、福音書はマルコ4章35-41節です。夕方になって、イエス様は弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。続きの5章を見ますと、そこはゲラサ人の地方であることが分かります。異邦の地でした。弟子たちはイエス様を乗せ、もう一隻とともに漕ぎだしましたが、激しい突風が起こり、舟は水をかぶり、水浸しになるほどでした。しかし、イエス様は船尾で眠っておられました。イエス様を起して慌てふためく弟子たちでしたが、イエス様は起き上がって、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ!」と言われたら、風は止み、凪となったのです。弟子たちは非常に恐れ、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言いました。文章はここで終わるわけですが、「この方はいったいどなたか?」という質問に、暗黙の内に待たれる応答は「この自然をも支配されるとは、救い主に違いない」というものと言えます。

“ノアの方舟”をはじめとして“舟”はキリスト教会のシンボルです。そして、迫害に揺れはじめている教会と信徒に、揺れ動く小舟のような教会に、主イエスは共にいてくださることを伝えてくれます。

私がまだ聖職を目指す気持ちのなかった大学3年生の頃、ゼミ旅行で神戸港から出発して小豆島へ向かったことがありました。台風情報は出ていたものの、まだ大丈夫ということで出港したのでしたが、まさか暴風圏に入ることになろうとは思ってもみませんでした。船は大揺れにゆれましたが、今日の聖書の一節を思い起こしながら、「神様はここで私を捨て置かるはずがない」と信じ祈り、目的地にたどり着きました。それからほどなく、紆余曲折はありましたが、思ってもみなかった聖職への道へ導かれることになりました。そこへ至るには、私なりの決断を要するものでした。これは私にとって、イエス様からの「向こう岸に渡ろう!」との呼びかけでした。

いざ神学院へ入学しましたら、神学院は揉めていました。まさに嵐です。2年目には休校になり、教区へ 戻され、教区の司祭方が担当してくださって、授業が進められ、3年目に改革されたカリキュラムで神学院が再開され、卒業しました。

最初の任地は聖贖主教会、博愛社で、やがて職員による児童への体罰の問題が発覚してくることになり、そこにも嵐が待っていました。その嵐の中にもイエス様がいて守っていただいたと感じます。

同時期に、神学院時代の実習経験を生かして、和歌山県紀伊田辺の近く、西牟婁郡で始まって間もなかった特別養護老人ホーム「愛の園」で青少年ワークキャンプなどを始めました。

その後も、新しい任地に行く度に、嵐に似た状況がありましたが、向こう岸へ渡ると、そこには新たな出会いが待っていました。短い時間では話しきれませんが「向こう岸」に亘ると、そこにはいつもイエス様がいつも共にいてくださいました。イエス様が一緒にいて下さることを信じてこれからも歩みたいと思います。