2016年5月15日

「ことばが伝わる」

ヨハネによる福音書14章8-17節

今年の復活日は3月27日、イエス様が復活なさってから弟子たちにご自分が生きておられることを40日に亘ってお示しになり、天に昇っていかれた。これを記念したのが「昇天日」。それから10日経って、ご小麦の収穫祭「五旬祭」、つまりご復活から50日目に、弟子たちが集まっていると、神様からの力・聖霊が降り、イエス様と共に過ごして経験した師イエスの言動の意味が理解でき、イエス様こそ救い主であることをエルサレムで人々に話した。そこには地中海世界の至る所から巡礼に来ていたユダヤ人たち、彼らは今や各地の言葉で日常を過ごす人々でしたが、イエス様がキリストであるということがよく伝わったという出来事が起きた。それを記念したのが「聖霊降臨日」です。

今回「聖霊降臨日」指定の聖書個所はヨハネによる福音書14章8-17節が選ばれています。これはイエス様ご受難の前、弟子の一人フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と尋ね、「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」と嘆かれているところです。イエス様を理解していく上での大切なことが述べられ、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」などと言われていることに応えて、今、私たちは「イエスの御名によって祈ります」と祈りの最後に付け加えています。そして、イエス様は自分を直接に見る事は出来なくなるが「父は別の弁護者(聖霊)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と約束して下さっているのです。

「聖霊降臨」という出来事は、直接的には、弟子たちが今まで習ったことにない言語で話し出したということで、これを“異言”と呼び、聖霊を受けた証拠として“異言”を語ることを強調するキリスト教の教派の人たちがいます。しかし、パウロが書いた手紙にも出てきますが、一般の人が理解できない1万の“異言”よりも、数は少なくても、教えを伝える“預言”をすることの方を勧めています(コリントの信徒への手紙Ⅰ14章19節)。今回の個所で大切なことは、イエス様の心を心として語った時、それが伝わったことです。旧約聖書・創世記11章の「バベルの塔」の物語(創世神話)にあるように、神様から離れて人間が傲慢になり、神様と同等になろうと高い塔を造ろうとした時に、神様が人間の言葉を乱されて意思疎通ができなくなってしまった。それが今、イエス様がおいで下さって、イエス様の愛をもって語れば、心と心が通じ合えるようになった。神と人、人と人との関係が回復したということに大きな意味があるのです。人を大切にする心を持てば事態は変わるのです。私たち人間が、イエス様を十字架にかけた愚かさに気づくこと、そこまでして私たちを愛して下さったことに気づくことが大事なことなのです。そして、気づいた者を神様は用いて下さるのです。

私は縁あって桃山学院大学で学ばせていただきました。小学校時代から教会に続けて通っており、大学生になった時から日曜学校の教師のお手伝いをしておりまして、日曜日には必ず教会に行っておりました。大学では授業と合気道部の稽古に明け暮れしておりまして、大学にチャペルがあり、中に入ったことはありましたが、自慢ではありませんが礼拝に出席したことは一度もありませんでした。4年生の12月になって、チャペルでクリスマス礼拝がある案内を見て、一度は出てみようと思い立って参加しました。その帰りの電車の車内で、どうも今しがたチャペルで見かけた学生が前にいて話しかけました。彼はMGボーイで、つまり桃中から大学まできた人物で、私が通っている教会牧師が、桃山学院中高の前チャプレンであることがわかりました。「一度K先生に会いに来ないか?」と誘いましたのが縁で教会に来るようになり、後に洗礼まで結びつきました。使徒言行録に出てくるフィリポとエチオピアの高官との出会いにも似た話です(8:26)。神様に用いていただけた貴重な経験となりました。皆様におかれましても、神様がきっとお用いくださるのではないでしょうか。