めからうろこ?

 わたしがまだうら若き高校生であった頃、コンタクトレンズをつけておりました。ある時、コンタクトレンズを落としてしまい、学校の廊下を通行止めにして探し回る事態に陥ったことがあります。その時はいくら探しても見つからず諦めたのですが、その三日後に見つかったのです。どのようにして入ったのかとても不思議でしたが、コンタクトレンズは、わたしの学生服の胸ポケットの中で乾いてカチコチになっておりました。水に入れてみたのですがレンズの一部がどうしても元に戻らず、使えなくなってしまいました。無理して目に入れてみると、目があけられないほど痛くなり、コンタクトを外すのに大変苦しんだことを思い出します。今考えると危ないことをしたものだと反省しています。その当時は、コンタクトレンズは高価なものでしたので、親からえらく怒られ、それ以来メガネをかけるようになりました。これは数十年も前の話しで、現在は遠近両用のメガネをかけています。

 前置きが長くなってしまい恐縮ですが、「目からうろこが落ちる」という言葉を聞くと、どうしてもあの時胸ポケットに入っていたカチコチのコンタクトレンズを思い出してしまうのです。今まで知らなかったことや気づかなかったことを知った時や、あるいは思い違いをしていたことを悟った時などに「目からうろこが落ちた」という言葉を使います。遮られていたものが除けられて、見えなかったものや分からなかったものが見えたり分かったりするという意味ですので、コンタクトを落として見えなくなるのとは全く逆です。また、目にうろこが入っていたら、乾いたコンタクトと同じで痛くて目もあけられないし、非現実的でありえない例え方であることは否めません。

 さて、この「目からうろこ」という言葉は聖書の使徒言行録(使徒行伝という名称もあります)という箇所に載っているお話から来ています。そのお話というのは、イエス・キリストの使徒であるパウロという人がキリスト教徒に改心したストーリーです。パウロはかつて熱心なユダヤ教徒で、その熱心さからアンチ・クリスチャンとなり、キリスト教徒を牢屋に入れたりムチで打ったりして大弾圧をしていた人だったのです。ところが、弾圧の旅の途中に天からの声を聞くことになります。何と、十字架刑にされて死んだはずのイエス・キリストが「なぜ私を迫害するのか」とパウロに語りかけるのです。死者からのクレームにびっくり仰天しただけではなく、それと同時に、天からの光に撃たれてパウロは失明してしまうのです。クリスチャンでない人は、ここまでのお話から「たたりは怖い」と感じておられることでしょう。しかし、このお話は「たたり」とは無関係です。人間の心の変化を説いているのです。と言うことで、パウロの心について考えてみましょう。この時、彼は何を思ったことでしょうか。もしかすると彼は「偽りの教えだと考えてキリスト教を弾圧していたのに、イエス・キリストが現れて自分に声をかけるとはどういうことなのか?」、また「光に撃たれて失明するとは一体何ごとなのだろう?」、「今まで正しいと信じてきた自分の生き方は本当に正しかったのだろうか?」などと色々なことを考えたことでしょう。

 今まで自分が正しいと思っていた考え方や生き方が間違っていると気づいた時に、自らを振り返って真剣に自分自身の心の内を照らして、何が正しいことなのかということをじっくりと考え直すことが必要となります。しかし、自分だけで悶々としていても解決の糸口は見えてこないのが世の常です。使徒パウロとて同じでした。目の見えなくたったパウロに、アナニアという人が遣わされます。アナニアは、神からパウロに手を置いて祈るように命じられて彼を訪れるのですが、何と彼がパウロの上に手を置くと「たちまち目からうろこのようなものが落ち」、彼は元どおり目が見えるようになるのです。ですから「目からうろこ」は真理に目覚めたことへの描写なのです。

 人間には、パウロのように天からの声を聴くようにして、今までの生涯を振り返る必要があります。そして、アナニアがパウロのために遣わされたように、自分だけの力ではなく他者に力を貸したり借りたりする必要もあるということなのかもしれません。人間は下手をすると鈍感になってしまって、目の中にうろこが入っていることすらわからないようになるでしょう。もし、乾いたコンタクトを目に入れても痛く感じなければ普通ではありません。それと同じように、自分の理解を遮る何かに気づかないのは、人間として普通の生き方をしていないということになるのかもしれません。本当の生き方、真理を求める心の姿勢は動物にはありません。それは人間にしか与えられていないのです。また、パウロの「目からうろこ」のようなものが落ちるという経験は、特別な人だけが経験するようなことではなく、この世の誰もが体験できる、または体験すべきことなのです。

 真理を求めてみたい人や他者の力を必要とする人は、どうぞキリスト教会を訪れてみてください。そこには真実や真理を見つけ出す何かがあるはずです。アナニアのような助け手も見つかることでしょう。教会の中でじっくりと、慌てず、祈りつつ目からうろこが落ちて真実が見えるような体験を是非してください。

日本聖公会 桃山学院大学 チャプレン 
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