主は今生きておられる (2020.4.26)

復活節第3主日(ルカ24章13-35節) メッセージ

主教アンデレ 晴久

主は今生きておられる わがうちにおられる

すべては主のみ手にあり あすも生きよう 主がおられる

(懐かしのゴスペル曲)


 今私たちは、今までに経験したことのない状況に置かれています。聖週、ご

復活日も含め5月30日までの公の礼拝・聖餐式を、新型コロナウイルスの急速

な蔓延、世界的な感染拡大ということを受けて、大阪教区・教会で休止すると

なっています。さらに今日は皆様に悲しいお知らせをしなければなりません。

教会関係者の中で新型コロナウイルスに感染され、逝去なさった方がありまし

た。魂の平安と深い悲しみの内にあるご家族のためにお祈りします。この感染

症は、聖餐式の恵みに与る機会から私たちを遠ざけます。人と人の間も遠ざ

け、人のぬくもりから遠ざけます。感染症の方があったとき、家族も会えませ

んし、聖職もお祈りに行くことができません。最後のお別れさえできません。

この感染症は、人と人との間を裂いてしまいます。


 いのちの主が、今苦境にある方、高齢者や孤独な人、介護施設で働く人、難

民収容施設におられるか方、ホームレスの方、病院、特に医師や看護師、感染

リスクにさらされている方々に、また経済的な困窮の中にある方々に、いやし

と希望を与え、必要を満たしてくださいますようにお祈りします。


 きょうの福音書は「復活したイエスと弟子たちとの出会い」の出来事です。

先週(復活節第2主日)のヨハネ20章同様、この箇所も2000年前の出来事という

だけでなく、主は今「生きておられる」(ルカ24章23節)、今も生きて私たちと

共にいてくださることへと私たちを導く出来事となっています。聖餐(せいさ

ん)式との関連もよく指摘される出来事で、聖書のみ言葉を聞き、パンを裂く集

いの中にいつも復活したイエスが共にいてくださるということを味わうために

最適の箇所でもあります。


2つのことをお話しします。


1、主イエス・キリストよ おいでください

 2人の弟子がエルサレムから約11キロ離れたエマオという村に向かって歩い

ていました。2人はエルサレムで起こった師匠であるイエスの十字架の死と、

主イエスが生きておられるという出来事ついて論じ合っています。すると彼ら

はイエスとは気づかないのですが、見知らぬ道行者が、共に歩かれます。そし

て2人に問いかける、「歩きながらやり取りしているその話は何のことです

か」。すると二人は立ち止まり、暗い顔をして立ち止まります。彼らの心は暗

く落ち込んでいたのです。きょうの福音書の弟子たちのように、失意のうちに

暗い顔をして歩んでいるときにこそ、気づかないけれどイエスがともに歩いて

いてくださっている。今、わたしたちも今暗い気持ちになりがちですが、主イ

エスが共に歩いてくださっていることを憶えましょう。もちろん、苦しみや悲

しみの真っ只中にいるときにはなかなかそのように感じられないでしょう。し

かし、後になってから「ああ、やっぱりあの時イエスは一緒にいて支えていて

くれたのだ」と気づくことがあります。


 2人の弟子は、見知らぬ同伴者に、「あなたはエルサレムに滞在していなが

ら、ご存じないのか」とあきれながら、そして事の次第や、イエスにどれほど

期待していたかを語ります。何が起こっているのかわからないという心の内も

吐露します。


 先日ルーテル教会の大柴議長さんから、素敵なメッセージが届きました。

「祈りには『さかなとねこ』が大切です。<さ>は賛美、<か>は感謝、<

な>は慰め、<と>はとりなし、<ね>は願い、<こ>は告白です。」そして

「<な>は、嘆きでもいいですね。」

2人の弟子は、こころの内を吐き出しました。わたしたちも、今の心のうち

を主イエスに、隠さずに申し上げましょう。


 25節「イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの

言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、

栄光に入るはずだったのではないか。』2人はお叱りも受けるのですが、主イ

エスは彼らの心を受けとめて、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体

にわたり、御自分について書かれていることを説明してくださいました。信仰

生活の伴は、主イエスにかかっています。聖書理解の深まりも、主イエスが共

にいて解き明かしてくださることで深まります。その時彼らの心が燃えまし

た。(32節)


 一行が、目指す村に到着したとき、イエスはさらに先へ行こうとされます。

2人は旅の同伴者(まだ2人はイエスだとは気づいていません)を、引き留め、

一緒に泊まって下さるように願います。「一緒にお泊まりください」(29節)の

「泊まる」は「とどまる」とも訳される言葉です。


 ここでもわたしたちの信仰の伴はイエスだということがわかります。今私た

ちがなすべきことは、聖餐式の最初にある「主イエス・キリストよ、おいでく

ださい」と祈ることです。「主よ、いつもわたしたちと一緒にいてください」

この祈りを、わたしたちの心からの祈りにしましょう。


2、裂かれた神の姿によって、生きよ

 復活のイエスは、一目見れば分かるような方ではなく、ある瞬間に「そう

だ、やっぱり主イエスは生きていてわたしたちと共にいてくださる」と気づく

ような方でした。きょうの聖書箇所の弟子たちにとって、それは主イエスがパ

ンを裂いた時でした。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂い

てお渡しになった。」(ルカ24章30節)。5つのパンを大群衆に分け与えたとき(9

章16節)も、最後の晩さんのとき(22章19節)もイエスは同じようにされました。

イエスのこの動作は弟子たちにとって特別に印象深いものでした。

キリスト教信仰の最も中心的な聖餐式において、わたしたちは裂かれたパン

(キリストの体)とワイン(キリストの血)をいただきます。聖餐式の中心は

主イエス・キリストの裂かれたお姿です。


 しかし、裂かれた状態と言うのは一般的には否定的な意味を含みます。この

世界には様々な裂かれた状態・状況があります。今回の新型コロナウイルス感

染症も、最初に申し上げましたように、人と人の温かいぬくもりのある関係を

引き裂いてしまいます。わたしたちと大切な聖餐式に与る恵みとの間を引き裂

いて遠いものにしてしまいます。その他。差別や環境破壊、戦争など人と人、

人と自然の関係を引き裂く、破壊的な状況が存在しています。


 聖餐式における主イエス・キリストの裂かれたお姿は、そうではなく、創造

的なものです。破壊的な裂かれた状態を癒すものです。イザヤ書の53章5節に

ありますように、「彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであっ

た。」人間の引き裂かれた状態は、主イエスの裂かれたお体によっていやされ

るのです。主イエスはわたしたちのために、十字架上で裂かれたお姿を示され

ました。そのことでわたしたちへの大きな愛を示されました。今わたしたちは

神様の愛のしるしである「パン」を頂けませんが、主イエスはわたしたちと共

におられ、大きな愛を注いでくださっています。


 先週の福音書と同様(トマスは弟子集団の中で、主イエスによって信仰の眼

が開かれました。)、この出来事の中にも、共同体というテーマを感じ取るこ

とができます。イエスの死は、弟子たちの共同体をバラバラにしてしまう出来

事でした。この2人も失望し、ほかの弟子たちを離れて2人だけでエマオに向

かって行きました。しかし、たった1人ではなく、2人連れでした。2人で話し

ている間に、次第に2人と共にいてくださるイエスに気づいていきます。そして

生きているイエスに出会った2人は、エルサレムに残っていたほかの弟子たち

のところに走って戻ることになりました。復活の主との出会いはいつも人と人

との間に起こり、人と人とを再び1つに集める力になると言えるのではないで

しょうか。


 今大切なことは、私たちへの愛のために裂かれた主イエスのお姿にならっ

て、わたしたちも互いに愛し合う時だということです。他者に無関心でいない

ようにしましょう。自分のことや自分の国のことばかり考える時ではありませ

ん。分裂している時でもありません。お祈りします。


 主イエス・キリストよ、あなたが聖餐式のうちに生きておられることを信

じ、何ものよりもあなたを愛し、わたしの心にお迎えすることを願い求めま

す。いま主イエスの尊い体と血に与ることができないわたしたちの心においで

ください。(しばらく沈黙します。)主よ、今あなたがわたしの心においでに

なったことを信じ、感謝します。わたしたちは常に主とともにいることを願い

ます。どうぞあなたの愛にならって、わたしたちも隣人愛に生きることができ

ますように。どうか主から離れることのないように、わたしたしを守り導いて

ください。アーメン


主は今生きておられる わがうちにおられる

すべては主のみ手にあり あすも生きよう 主がおられる

(懐かしのゴスペル曲)


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