信仰とは?

信頼

最も基本的な安心、多くの場合に誰にも共通する信頼関係は、どこにあるのでしょうか。それは、赤ちゃんが、母親や父親、またそれに代わる人に対して持つ感覚や態度にあるのではないでしょうか。赤ちゃんは、栄養摂取や排泄、衣服や温度調節、衛生管理、移動等に関して、自分ではなにもできません。親をはじめ他者に全面的に依存しなければ、生きられません。赤ちゃんは、自分の全存在を他者に委ねきっています。そこに、人ならばだれでも持つ、信頼の基本的な姿を見出すことができるでしょう。もちろん、赤ちゃんの信頼に対して、親が完璧に応えることはできません。ただ、幾度となく繰り返されるこの素朴な信頼と応答の関係の中で、赤ちゃんの人格は形成され、人間として成長していきます。


信仰

キリスト教信仰は、先に述べたような人と神との信頼の関係だといえます。世界を創造し導き、世界に意味を与えている唯一の神(the God)に対する信頼の態度です。約2000年前パレスチナのナザレ出身のイエスによって示され、受け継がれています。イエスは、唯一絶対者である神を、遠いものとしてではなく、父親のように(あるいは母親のように)最も近い存在として、自ら「アッバ」と呼びました(新約聖書:マルコによる福音書14章36節参照)。また、聖パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の4章5〜6節で、次のように書いています。
『それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。』
「アッバ」とは、ごく幼い子どもが父親に対して呼ぶときの表現です。まだおぼつかない発音で「パパ」とか「父ちゃん」とかいう感じでしょう。そして、成長した大のおとなでも誰でも、神からの呼びかけに応じて、神に対し素朴に「アッバ」と呼ぶ信頼の関係に立つことができると、イエスは全生涯を通して示しました。そこに、「あなたとわたし」の人格的な呼び合い・対話の関係が生まれます。この信頼が信仰です。


信仰の醍醐味〜意味と生きる力〜

信仰は、自信とか信念とは違います。自信や信念は、自分の経験や実績や知識や論理などの裏付け・土台があって、成立します。生まれて間もない赤ちゃんには、とてもできません。ところが、信仰について、新約聖書は次のように語ります。
『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。』(ヘブライ人への手紙11章1節)
信仰においては、経験や知識や論理による裏付けが必要条件なのではなく、「アッバ」と呼ぶ幼い子どものように、神への信頼が何よりも先にあります。だから、どんなに絶望的な状況にあっても、希望を持つことができます。そして、見えるとか分かるとかを越えて、赤ちゃんのように、その望みを確信するのです。そこに、信仰の醍醐味があります。妄信や盲信ではありません。いろんな裏付けの有無にかかわりなく、神への信頼により包み込まれ、乗り越えられてしまうのです。すると、あとから振り返ってみたら、生きる意味と力とが生まれ与えられるということが起こるのです。
いろんな裏付けに寄りすがるのではなく、神との信頼関係において、逆に裏付けとなる事柄を自分のうちに与えてもらった人に変えられるのです。人間の知恵や経験、常識を超えた創造的逆説と言ってもいいでしょう。人は、一方で神との関係では100パーセント受身でありながら、他方、その神に応答する者として100パーセント自由で主体的に生き、責任を負う者として造られているというのが、聖書の、キリスト教の人間観です。
こうしてみると、誰であれ自分自身のうちに芽生えとして初めから、信仰をすでに持っているといえそうです。すでに芽生えているこの“芽”に気づくチャンスが、とっても大切ですね。