2000年9月25日 146号 《速報版》
日本聖公会管区事務所
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発行者 総主事 司祭 輿石 勇

 

      聖書のことばの逆説的構造

                          管区事務所総主事 司祭 輿石 勇

 日本の聖書学の発展に大きな貢献をされた関根正雄先生が今月9日に亡くなりまし。個人的な関係は別として、私は関根先生のほんとに小さな論文からかなり衝撃的なメッセージを受けたことを思い起こします。ご存じのように、旧約聖書も新約聖書もそれぞれのテキストを生み出した地域の言葉で書かれています。つまり、言葉に込められた環境世界の文化の影響を強く受けているということです。例えば、旧約聖書の天地創造の物語には、それに先立つバビロニアの創造神話があったと言われています。しかし、聖書に結集することになった文学群を、語ったたり、書き留めたり、編集したりした人々は、それらの先行する古代中近東の文学をそのまま、つまり何の修正も加えずに、採用したのでないことは明らかです。聖書がそれらの先行文学を独特な仕方で採用する視点、とでもいうようなものを、関根先生は聖書の言語の構造と表現され、それを「類比をもとにした逆説」と、ある人の言葉を借りて、定義されたのだと、私は受け止めています。その関根先生の定義が私には衝撃的であり、今も私の考え方を規定していると思います。

 関根先生によれば、言葉は類比という構造を持っています。言葉は「事の端」だという説明はその例として適切でしょうか。いずれにせよ、アルファベットの源流の一つがエジプトの神聖(象形)文字であるように、何かに似たものによってあることを表現するというのが、言語表現の仕組みだと言えます。ですから、先に少し触れましたバビロニアなどの神話は、人間の経験を投影した物語だということになります。このような神話は、かなり高度な文化を可能にした政治権力のもとで、王権を神格化して正統性を示すための「神王イデオロギー」として使われることになります。しかし、この「神王イデオロギー」の対極に立つのが聖書の言語だというの関根先生の主張です。たとえば、今年をヨベルの年として累積債務の帳消しを求める運動が行われましたが、このヨベルの年の規定の背後には「土地は神のものだ」という考え方があります。土地は神のものなのであって、売買することも、土地を抵当に融資するのも原則的に不可能なのだから、耕作権もしくは収穫所有権を本来の権利所有者に戻すというのが、ヨベル年規定の内容です。このような規定の背後には、全てのものの創造者である神が全てのものの所有者であって、人間は管理人に過ぎない。人間は神に創造された者であるから、全ては神の姿に似せて創られた者として尊ばれなければならない、という根本的な認識があることは申すまでもありません。
 
 ところが、このような聖書の逆説性にも拘わらず、聖書の伝承を生きているはずの人間が容易にこの逆説性を見落としてしまうのは恐ろしいことです。マルコによる福音書8章に出てくるペテロのメシヤ告白をめぐるエピソードは、人がなぜ聖書の言葉の逆説的構造を見損なうかを示す一つの典型的な例だと言えましょう。「メシヤが最後にイスラエルを救済する」というメッセージは、壊滅的な打撃を被ってうちひしがれているイスラエルの民に対する激励のために預言者によって、ある特定の時に、語られたものでした。「お前たちは神の民だから、神は決してお見捨てにはならない」というこの約束だけを頼りに、イスラエルのある人々は苦難に耐えることができたのでしょう。しかし、その希望の言葉はやがて、特定の時や状況から離れ、イスラエル人を特別な存在とする選民意識に結晶化することになりました。メシヤであるイエスの開示された「メシヤの運命」は、これまでのペテロの人生を支えてきた自己理解を根本から脅かすものでありました。だから、ペテロはイエスを「非難」(「いさめた」と訳されていますが)せざるを得なかったのでしょう。

 おそらく、聖書のみ言葉をそれが本来語られた時と場から切り離してしまうことが、自分の願望を自己投影して聖書を読む、つまり聖書の言葉の逆説的構造に反して類比的に読ませることになるのではないかと思います。関根先生の訃報に接し、聖書のメッセージをそのまま受け止めることがどのようなことか改めて考えす必要があることを思い起こさせられました。