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「最低限度」からの脱出
管区事務所総主事 司祭 サムエル 輿石 勇
先日、管区事務所で行われたある会議の休憩の折りに、つい最近改築したばかりの教会に属する委員の方が、「『改築費の限度を超えてしまうので、既にスロープがついているから、もう一つスロープを設置することはできない』と言ったのに、『どうしてももう一つ正面にスロープをつけるべきだ』という強い声に押されてそうしたのですが、そうしておいて良かったと思います」とおっしゃいました。すると、別の委員の方が「うちの教会でも、階段の昇降が苦手なお年寄りなどのために簡易の昇降機を付けました。利用者は余り多くはないのですが、その機械を見て『そこまで配慮があるのは、さすがに教会だ』という反応がありましてねー」と同意見を開陳しました。「そうなんですよ、オルガンのリサイタルなどの時に便利される方も多いので、いやー、ほんとうに良かったと思いました」と会話は続きます。
教会に車椅子用のスロープが設置されていなくても、法律に触れるわけではありません。
しかし、車椅子を利用する方の便宜を考えれば、利用者の数の多少にかかわらず設置する方が良いに決まっています。基本的人権が国民の誰にもあることが憲法に明記されていることは殆ど誰でも知っています。その中には、移動の自由、思想・信教の自由、教育を受ける権利など沢山の個人の権利が含まれています。しかし、車椅子用のスロープがないために移動の自由が制約されることが起こります。他の人と平等の権利を持つとすれば、他の人が制約されないことをある人が制約されてはなりません。このように、人権をただの「健康で文化的な最低限度の生活」の権利を守るのではなく、より豊かに生活できるようにすることが、おそらく、本来「福祉」(良い生活の状態)ということばの意味だったのだと思います。
世界の聖公会の宣教の働きが、ある時期福祉の活動そのものだったのは偶然ではありません。福音は人間をより豊かに生活させるからです。まだ近代国家ができあがる前、産業革命のせいで都市に出て来た底辺労働者の住宅改善の運動などを教会が手がけるしかなく、底辺労働者の子どもたちのために教会が教育の機会を提供する他なかったようです。(このような働きの中心的な担い手が女性の奉仕者であったこと、また「女執事」と関係があったことにもっと注目してもよいと思います。)いずれにせよ、福音宣教の働きは人間の生活をより豊かにする働きであり、今でも日本の聖公会関連の福祉施設で、本来の意味での福祉を追求する働きが継続されていますことは、改めて申し上げるまでもありません。
今年の初めに日本を訪れた英国聖公会の、他宗教との対話の担当主事マイケル・イプグレイブ司祭は、英国で今、回教徒の信教の自由のために運動しているという話をしてくれました。回教徒の聖日は金曜日ですので、多くの英国の企業は金曜日を聖として守る回教徒を採用しないのだそうです。それは、信教の自由の侵害だし少数者差別でもあるとして、企業は回教徒を理由として採用しなかったり、解雇してはならないという運動をしているのだそうです。これもまた、人がより豊かに生活できるようにする重要な働きです。日本で今起こっている在日外国人に選挙権を与えるという運動も、これと同様な働きでしょう。
しかし、車椅子のためのスロープをつけるような、もっと毎日の生活に密着した、人がより豊かに生活できることが、私たちの身のまわりにあるのではないでしょうか。「いやー、お金ないのにスロープ付けさせられちゃったんだよね」というような話のたねを、あちらこちらで拾い集めたいものです。