2000年12月25日 149号 《速報版》
日本聖公会管区事務所
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発行者 総主事 司祭 輿石 勇

 

 二元論という病い

管区事務所総主事 司祭 サムエル 輿石 勇

 降臨節第三主日の福音書は、洗礼者ヨハネが群集に向かって「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」と言ったと記しています。これは、イスラエルの民が「我々の父はアブラハムだ」と主張していたということを暗示します。しかし、アブラハムを自分たちの父として主張することに、はたしてメリットがあるのでしょうか。

「その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで』」(創世記15章18節)という記事を読めば、自分たちがアブラハムの子孫であると主張することの重要性が明らかになります。これが、今もパレスチナ問題と言われる土地所有権争いの種である、シオニズムの根拠であろうと思います。しかし、アブラハムを父とするという時に、単純に血縁的にだけ受け止めることが適切なのかどうか疑わなければなりません。それは、アブラハムが「生まれ故郷、父の家を離れて、わたし(神)が示す地」に行くこと(創世記12章1節)によって、地縁、血縁的なものを切断しているからであることは言うまでもありません。

 アブラハムが「生まれ故郷 父の家」を離れたのはなぜでしょうか。これについては旧約聖書には特に説明がありません。しかし、人口移動の最古の理由は、ある共同体の持つ食糧が成長する人口を養えなくなるということに求められます。この関係を、聖公会の信徒でもありました人口学者、故南亮三郎先生は「人口扶養力と人口圧」の関係と表現されました。それはともかくとして、食糧不足は、戦争による弱者の殲滅(せんめつ)か人口移動によってしか解決されないということです。そこには、強い者と弱い者、食糧を所有できる者とできない者、生き残ることのできる者と死ぬしかない者のいずれかしか有り得ません。強い者と弱い者が限りある食糧を共有しつつ、食糧増産を図るというオプションはありません。

 アブラハムが目指した「神の示す地」は、このような二元論から自由な、新たな共同体であったのだと思います。それは、甲も乙も共に生きることを目指す共同体であったはずです。そのような共同体を目指す者こそ「アブラハムは我々の父」と主張できるのだと、洗礼者ヨハネは言おうとしたのではなかったでしょうか。

 11月の末に、日韓聖公会神学会議という会議が開かれました。その中で、菅原執事(東京教区)はマルコ伝1章40節以下の「らい病人の癒し」をテキストとして聖書研究をなさいましたが、その癒しが二元論からの解放であったこと、そして宣教とは、自発的に二元論との戦いに身を投じていくこと、というお話をしてくださったのが非常に強く印象に残っています。清浄と汚穢、義と不義、といった特に法律主義に特有の二項対立的な考え方が、人を病いに陥れてしまうということを改めて深く肝に銘じつつ、これらの病いを根本的に癒してくださるお方の降誕を心から喜び迎え、このお方の歩まれた道を辿ることができるよう祈り勤めたいと思います。