●カンタベリー大主教2000年クリスマス・メッセージ
ベツレヘムの民
日本聖公会の当面する宣教課題
−機構改革をめぐって−
日本聖公会訓練計画委員会委員長
司祭 ヨハネ 吉田 雅人
2000年5月に開催された日本聖公会第52定期総会は、「日本聖公会管区機構試行に関する件」を可決した。その主旨は、日本聖公会の管区機構を簡素化し、激変する現代社会に対応しやすい機能的な組織にすることであると理解している。これにより、総会の代行機関として、役割面で改革された常議員会、常設委員会として「神学教理委員会」「礼拝委員会」「法規委員会」が新設された。一方、総会の立てた諸委員会の存立が見直されることになり、総主事および担当主事のもとで見直しが行われている。
現在、日本聖公会には総会の立てた委員会が全部で16あり、その内訳は特定の課題を与えられた委員会(聖歌集改訂委員会等)が4、日本聖公会の組織維持のための委員会(年金委員会等)が4、特別な目的を持って継続する必要のある委員会(エキュメニズム委員会等)が2、日本聖公会の宣教にかかわる委員会(部落差別問題委員会等)が6である。
ところで、今回可決された機構改革案の最大の問題点は、管区としての日本聖公会の宣教課題を研究・検証する組織に対する視点を欠いている点とする指摘があることである。この改革案を総会に提案した委員会は、「宣教は各教区が主体的に担う」という主張であったが、果たして日本聖公会の11の教区が、各々独自に山積する宣教課題に対処しながら、さらにとりわけ宣教にかかわる管区の6委員会が担ってきた課題を担うことが可能かどうか、はなはだ疑問であると言わざるを得ない。その意味で、日本聖公会の宣教課題を研究・提案する常設委員会の設置が望まれるところである。(これからの問題点をめぐって、総会以後管区と宣教にかかわる諸委員会と総主事との間で対応策について協議を重ねてきているが・・・)
さて、現在において日本聖公会が当面する宣教課題とは何であろうか。1970年から現在までの日本聖公会の宣教課題を要約すると、1980年代前半までは信徒・教役者のあらゆる意味での意識改革と養成であった。そして1980年代後半から現在までの主要宣教課題は、主イエスがこの世の弱くされた者、貧しくされた者により関わりを持たれ、あらゆるレベルでの救いと和解の業を行われたように、教会もまたこの世のいと小さき者に関わり、彼らの問題を教会の宣教課題として共有し、共に声を上げ、行動することであった。これらの人権、社会的構造の不正義の問題は、我々が今後も継続して関わらねばならない重要課題であろう。またそれに加えて環境、生命倫理等の新たな問題にも関心を向け、福音の視点から預言者的働きが求められているであろう。これらは、神のみ心を祈り求めつつ、主イエスに従う我々の日本における課題であると言える。
しかしもう一方で、我々は悲劇的な現実に直面している。それは教役者の激減という問題である。日本聖公会の統計によれば、日本聖公会には現在約280の教役者がいるが、現状のままなら、10年後の2010年にはその数が現在の約70%、2020年には約40%に減少する見通しである。仮に今後毎年5名の教役者が養成されたとしても、10年後は約70%でほぼ変わらないが、20年後には50%程度にまで落ち込むことが予想されている。
神の宣教への参与の働き、教会の宣教の業は、信徒と聖職が協働して参与するものである。しかしその一方の減少が確実であることを考える時、司祭職に固有の職務を除く教会のあらゆる働きに参与できる信徒の養成と、次世代を担う青少年信徒および教役者の養成は、日本聖公会が今後10年間に当面する最も大きな宣教課題であると言えるのではなかろうか。と同時に、我々は日本聖公会の教会論の再構築と真の意味での機構改革を成し遂げねばならないと思う。
(本稿はNSKK NEWS LETTER 2000年12月号に掲載されたものです。)
アドヴェントの祈り
女性が教会を考える会(東京)では、1995年から毎年アドヴェントの時に、ともに祈る会をもってきました。兄弟姉妹がともに神様に仕える道が開かれるため教会も私たちも変えられるようにこの祈りの会を開いてきました。今年2000年、アドヴェントの祈りの会は、去る12月1日の夕、目白聖公会で“怖れずに希望を持って”−新しい時代を担うために−というテーマのもとに開かれました。十字架とローソク、聖書を囲みながら、祈りの中で3人の方のお話を聞くことが出来ました。
○教会におけるパートナーシップは正20面体のようなものであり、男女間ばかりでなく年齢差、障碍者と健常者、日本人と外国人などいろいろな形があるが、それらがキリストの共同体として球状につながっていると思う。
○イエスは肉においては男性であったけれど、ジェンダーという意味においては真ん中であると思う。だから女にも男にも変わることなく接された。イエスの生き方のすばらしさは、怖れに勝っていることである。私はあえて怖れの中に自分で飛び込むことも大切と思っている。
○女性だからという理由で痛みを覚えるのは社会よりもむしろ教会の中。教会の中で女性が責任を持って生きると言うことは十分出来ると思う。しかしまだまだ教会の外の社会での方が賜物をより生かしているように思える。女性が教会で働くことでの痛みをなくすためには女性の側からの変化も大切なのではないか。
小さな集まりでしたが、女性国際戦犯法廷のためや女性への暴力を断ち切るため、またパレスチナで戦いの被害に遭っている人々、特に女性と子供たちのため、など多くの祈りが熱心に捧げられました。このアドヴェントの祈りの会をこれからも続けていきたいと考えています。
女性が教会を考える会(東京) 小林幸子
ベツレヘムの民
私の大好きなクリスマス・キャロルは「小さなベツレヘムの村(「冬の夜ふけゆき」古今聖歌集24番)です。米国聖公会マサチューセッツ教区の主教であったフィリップ・ブルックの作ったこの聖歌は、クリスマスの不思議を非常に雄弁にかつ美しく表現しています。彼はボストン三一教会の牧師であった1868年にベツレヘムを訪れました。その忘れ難いベツレヘム訪問の後で、彼はこの聖歌を作ったのです。
数年前、私と妻アイリーンは正教会のお祝いとの関係でクリスマスにベツレヘムを訪れました。正教会の大主教や大勢の巡礼者と共に町の狭い通りを通って降誕教会に参りました。それから教会の小さな入り口を通るために身を屈め、何百人もの巡礼者のろうそくの灯でまばゆいばかりの内部に入りました。ギリシア正教の厳かな礼拝が始まりました。正直に申し上げれば、その後どのようなことが行われたのかよく覚えておりません。しかし、私が覚えておりますことは、礼拝の後私たちは隣りにあるフランシスコ会の美しい教会に紛れ込んでいたことです。私たがちがそこに入りました時、少女の声が歌い始めました。
小さなベツレヘムの町よ、
何と静かなことだろうか
それに続いて、誰もが自然にそのキャロルを歌い出して、美しく飾られた教会中に広がりました。
なんじの深い眠りの上に
静かな星が上る
なんじの暗い街路にも
永遠の光が輝く
なんじのすごした年月の希望と不安が
今宵なんじの中で出会う
ベツレヘムはその時私の心を大きく捉えました。そのキャロルは「平和」について語ります。しかし、たった今聖地には殆ど平和はありません。「私たちは、他の全てに勝って愛されたその地にある自分の兄弟姉妹を十分に支援しているだろうか。回教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が違いに調和して生きることができるよう十分祈っているだろうか。その地がこれら全ての人びとの所有にならない限り平和が訪れないことを全党派の指導者が気づくまで、どれだけの人がなお暴力によって殺されなければならないのだろうか」と自問いたします。
しかし、このキャロルは神の子という神からの贈り物について語ります。
静かに、静かに、
素晴らしい贈り物が与えられる
こうして神は人の心に
天の祝福をお与えになる
「ちょっと待てよ、正義や社会的な拝領の問題に深い関心を寄せる、クリスチャンであるお前は、キリスト教の使信の中心を無視する危険性を持ってはいないだろうか。私たちの使信は私たち全てに与えられ、また私たち全てを変える神の贈り物についてではなかっただろうか」と私は自問するのです。もちろん、この使信は社会的な拝領や正義の問題を含むものでありましょう。しかし、これらのことは「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」というヨハネ伝1章に表現された福音の使信から生ずるものでありましょう。フィリップ・ブルックスは常にその真理を常に最高のものとしておくことの重要性を知っていました。それが私たちの証言を弱め、また私たちの交わりを損なう多くの個々の問題への妄執に対する答えなのです。
誰も彼の到来を聞くことはない、
しかしこの罪の世にあって、
従順な魂が彼を静かに受け入れる
愛するキリストがお入りになる
ここで条件を示す形容詞は「従順」ですが、「謙遜」と言い換えることもできるでしょう。私は時々ブルックスが、大人が入るためには身を屈めなければならないほど低い、小さな十字軍の入り口を思い描いていたかどうか思いめぐらします。ブルックスはその同じ扉を入ったので、そのイメージが彼を強力に揺さぶったのではなかったでしょうか。そのイメージは二つの方向を取ります。キリストは私たちの心に入るために非常に低く身を屈めます。これは受肉を感動的に示すものです。これは人間のいのちにお入りになるキリストの「愛」のことです。しかし、逆のことも本当です、すなわち、私たちもまた「ベツレヘム」へのその旅をしなければならず、キリストのいのちに余すところなく入るために身を屈めなければなりません。
私はこのキャロルに関する黙想がキリスト者の使信とキリスト者の希望を簡潔に要約するので、皆様にご紹介申し上げる次第です。私たちが、全ての者が主の愛を分かち合い、平和な男女となることをひたすら願われた主への献身を特徴とする「ベツレヘムの民」となることができますように。最後に、私とアイリーンからの愛のご挨拶を皆様にお送り申し上げます。私たちキリスト者すべての希望と恐れとが、「イマヌエル」(神は私たち共に)である方の中で出会うことが出来ますように。