日本聖公会各教区報のなかから
☆毎月、広報主事宛に送っていただく各教区報のなかから、ご紹介しております。
沖縄教区時報11月号・第20号
九州教区報「はばたく」12月号・第363号
主教館と宣教センターが完成
ベッテルハイム ホール
(沖縄教区時報11月号・第420号)
去る3月から建築中だった『主教館と宣教センター』が完成した。教区民である私達は通称『教区センター』と呼ぶが、一般的な正式名称は『聖公会べッテルハイム ホール』という。
宣教の拠点として、センターの2階に設備したシアター(劇場)スタイルの多目的ホールを一般に開放し、貸しホールとして活用してもらうことによって、一般の方々に、とにかく、聖公会の敷居をまたいでもらい宣教の足がかりをつかもうという願いと期待をこめての命名である。
ご承知のとおり、ベッテルハイムは、英海軍の琉球伝道会が1846年に琉球伝道のために派遣した聖公会の宣教師である。沖縄民謡の『西武門節』の中で“ナンミンのガンチョウ“として謡われ、親しまれている。私達はナンミンのガンチョウが聖公会の宣教師であったことはよく承知しているが、県民の多くは知らない。
「聖公会宣教センター」ではいかにも、宗教的すぎて利用者が限定されることを懸念する。私達は、この施設を一般に開放して利用してもらい、宣教の手段となることを望んでいるので、それにふさわしい名称とした。ホールで行われる催しものの案内には、新聞をはじめあらゆる印刷物に「聖公会べッテルハイムホール」と印刷される。(略)
これから、このべッテルハイムホールでは、コンサートをはじめ講演会、芸能公演、シンポジウムやフォーラム、あるいは小規模の絵画展や写真展−などの催しものが開かれるはずである。そのために、多くの人々が、聖公会の教区センターの玄関をくぐり、敷居をまたいでべッテルハイムホールに集う。
この人達に、キリストの福音をどう伝え、キリストをどう証しし、信仰に導くか私達の課題である。多くの人達がホール利用のために集まっただけでは宣教にはならないからである。
新装成った教区センターにはチャペルがあり、主教執務室、教区事務所、多目的ホール、そして主教館がある。ホールは130名が入る電動式の客席とステージ、コンサートができる演奏用のピアノと展示ができるパネルの設備もあり、宣教の拠点としての機能は備わっている。
長年の議論の末に、教区センターはできた。この大きな賜をどう生かすか、この賜を宣教の拠点とするために、私達が持っている賜を発揮して宣教の実を上げる時がきたと思う。
主教館・宣教センター
建築運営委員長 真喜屋 明
(九州教区報「はばたく」12月号・第363号)
アンナ 黒阪 かおり(大分聖公会)――私達家族は、昨年の3月までの5年間、白鳥の飛来地で有名な宮城県北部の迫町に住んでいました。
同じ町内に、東北新生園というハンセン病療養所がありました。かつて園の医師だった先生から、訪ねてごらんなさいと勧められていたので、私達は、迫町に引越して間もないイースターの日、その日はとても風の強い日でしたが、行ってみることにしました。
なだらかな丘陵地の松林の道をずっと進むと、パッと開けて平屋の建物が整然と並ぶ道に入ります。病棟、住居棟、浴室、図書館、売店、郵便局、そして、そのまわりに、池やグランドや色々な宗教の集会所がありました。
キリスト教信交会。坂を上がった芝生の庭の中に建つごく普通の一軒家。玄関を入ると30畳ほどの和室がありました。私達は、時間を間違えて、祝会からの参加となってしまったのですが、温かく迎えてくださり、1才になったばかりの長男は、机も人も何でもつたって動き回りました。そして、皆さんの間の通路を両手を前に出し平衡をとって歩き出したのです。新生園の方々の「上手、頑張れ!」の声の中で。生まれて初めて二本足で歩いた瞬間でした。
この日以来、私達は、月に1度、礼拝に参加させていただくようになりました。礼拝は、司会者、お祈りの人が当番で決められ、説教はテープを聴くことが多かったです。お祈りの時の深い言葉、アーメンという皆さんの力強い唱和は、今でも耳に残っています。礼拝後、いつも数人の方々がお茶の時をもってくださり、時々、新生園の開墾の時のこと、隔離政策が終わっても家族の元へ帰れなかった人のこと、断種のこと、死者を園内で埋葬したことなどを淡々と話してくださいました。平均年齢80才。お元気そうに見えても皆どこか患っていらっしゃるとのことで、病気が再発して園に戻られた方、しばらくお会いしない間に、足の切断手術を受け、車椅子の生活に変わられた方もいました。初め70人ぐらいだった礼拝出席者が、5年後には40人に減りました。
このような日々の中でも、皆さん、私が2人目を妊娠した時、優しく体調を気づかってくださいました。子供達を「新生園の孫だ」といって、抱いたり、あやしたりして、帰る時には、お菓子や手作りの立派な野菜を持たせてくださいました。
私達にできることは、子供達を連れておじいちゃん、おばあちゃんに会いにいくこと。そして、クリスマス会などの祝会で余興をやることぐらいでした。赤鼻のトナカイを歌った時は、長男がサンタで、10ヶ月の次男は、トナカイ役。赤丸シールを鼻に、厚紙の角を頭につけ、ハイハイしました。
生と死を見つめる新生園で、子供を授かって歩み始めたばかりの私達は、いつも皆さんの温かさに包まれ支えていただいたのだと思います。新生園は、我家にとって、忘れられない場所となったのです。