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「新しい時=主の恵みの年」
管区事務所総主事 司祭 サムエル 輿石 勇
新しい年また新しい世紀を迎えるに際しまして、心からのご挨拶を申し上げます。本年から始まります新しい世紀が全ての人にとって安心を約束するものであるよう、心から祈らずにはおられません。
「新しい時」の始まりにはどこの国民も特別な感慨を寄せるようです。年末の忘年会(韓国では「送年会」と呼ぶことをつい最近知りました)から始まって、大掃除など、人間も自分を取り巻く環境と同じように、積もった垢や汚れを落として、無垢なものとして新しい年を迎えたいという思いを、新年は人間に覚えさせるのでしょう。
「新しい時」は、聖書の世界でも、もちろん、非常に大切な主題です。そのことは、イエスの誕生日がもともとは1月1日であったという伝統に示されています。それとは違った形の「新しい時」が顕現後第3主日の旧約聖書(ネヘミヤ記8章)に認められます。エズラによる新しい法の公布の場面がその記事の主題ですが、新しい法の公布は、一つの時間が終わって新しい時間が始まることを示しています。新しい法の公布は、また、これまでとは何か違う新しい原理に従って生きるという、人間の生きる姿勢の新しさをも示すものでもあると思われます。しかし、聖書で「新しい時」が大切にされる根本的な理由は、神の意志が人間の知識や経験を超えていること、人間の知識や経験とは全く違うこと、を示す手段だからではないかと思います。このことは、これまでとは全く違った環境条件を生きる神の民に新しいメッセージが示されることと結び付くでありましょう。
外国人勢力がイスラエルを滅ぼして、「アブラハムが義とされたので、その子孫はカナンの地を与えられる」(創世記15・6、18)という約束が裏切られたように思われた時、神はその民の契約違反に報いられたというメッセージがもたらされました。エズラによる律法の公布も、エルサレム神殿の崩壊と再建とに関連した、新しい時代とそれにふさわしい神のメッセージを含むものでありました。
イエスの誕生日が、前に述べましたように、新年、しかも西暦紀元0年の1月11日であったとする、キリスト教会の伝統は、イエスによってもたらされた、あるいはイエス自身の生き方の、新しさを強調しようとするところから生まれたと言うことができると思います。それでは、イエスの新しさとは一体どのようなものだったのでしょうか。顕現後第3主日の福音書(ルカ4・16以下)は、イエスが安息日にナザレのシナゴーグでイザヤ書を読み、そのメッセージが実現したことを宣言したと記しています。イエスが読んだとされるイザヤ書の最後の部分は「主がわたしを遣わされたのは、捕われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由に、主の恵みの年を告げるためである」となっています。しかし、出典箇所であるイザヤ書61章には「主の恵みの年」に続いて、「わたしたちの神が報復される日」という一節があります。イエスがこの一節を読まなかったということを通して、ルカはイエスの新しさを示そうとしているかのようです。
「主の恵みの年」とはもっと具体的、直訳的に言えば、主が「祈り」や「捧げ物」を受け入れたもう年ということになります。「年」というのは、おそらく、ヨベル年などの「解放の年」「購いの年」と結び付くのでしょうが、そのような年はまた「神による受け入れの年」なのでありましょう。したがって、その年はかつてイスラエルにとって、自らをとりこにし抑圧を加えた敵に報復が加えられる年であったのでありましょう。しかし、イエスのメッセージは、神はただイスラエルの「祈りや犠牲」だけではなく、全ての人々の「祈りや犠牲」を受け入れたもうというところにあるようです。それは、神が、一つの民族グループや信仰の集団に与して、その敵に報復の鉄槌を下すような方ではないということを示すものでありましょう。イスラエルの神を、敵も味方も、等しく自分が、しかもその姿に似せて、創った被造物全てを、愛しまれる方として、十字架に象徴されるご自分の生涯を通して示したところに、イエスの新しさがあることを、年の始めに際し、改めて思い起こされました。