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| 地 の 塩 の 塩 味 |
| 管区事務所総主事 司祭 サムエル 輿石 勇 |
| 主イエスご復活のお喜びを申し上げます。 既に皆様がご存じのところですが、3月31日に立教女学院聖マリア礼拝堂におきまして東京教区植田主教様の主教按手式が行われました。東京教区は聖職按手式の中で、祭服や聖書などの、聖職の当該の職務を象徴する品物を新たに聖職按手を受ける人に授与する習慣があるようです。今回の主教按手式もその例に漏れず、チャリスとパテン、オリーヴ油などが塩と共に授与されました。塩は、当然ながら「あなたがたは地の塩である」というイエス様の言葉に由来しています。そして、塩の授与は、主教の職務が塩としてキリスト者の性格を象徴するものだからでありました。 イエスは言います。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ5:13)。塩とは何かということにつきましては、多くのご意見があろうかと思いますが、ここでは「人間の生命になくてはならないもの」の一つと定義させていただくに留めたいと思います。ところで、その重要な塩が塩気を失ったら何によって塩味がつけられるのでしょうか。マタイ伝5章はこの疑問を反問のような形で用いながら、答を与えていません。 この個所の並行記事であります、マルコ伝9章49節を見ますと次のようになっています。「人は皆、火で塩味を付けられる」。これこそ、「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう」という問いの答ではないでしょうか。塩味を付ける「火」とは、イエスの十字架に象徴される苦難のことだというのが、一般に受け入れられた解釈だそうです。地の塩であるといわれた「あなたがた」とは、イエスに従った者のことでありましょう。もしそうだとすれば、それは、イエスに従うことを誓約したキリスト信徒全てが、可能性としては、地の塩だということができると思います。私ども一人一人が塩味をつけられることなく地の塩となることができるのかどうか疑わしいからです。 復活節第2主日の福音書は、イエスの十字架と初期の教会がどのように結びついているかを語っています。ヨハネの福音書20章によれば、イエスの墓を訪れたマグダラのマリヤは、彼女の言葉によれば「主を見ました」。この女性の証言は散っていた弟子たちを集め、そして、集まった弟子たちも「主を見た」のでした。このように、墓を訪れることに象徴される、もしかすれば危険を伴う行動が「主を見せ」、そして「主を見た」という証しにつながっていったということです。このようにして、教会は派遣と帰還、離散と集合という動きを本質とするようになりました。 しかし、いつごろのことか定かには分かりかねますが、教会は自分が真理を持っているのだから、決して誤ることはないと思い込むようになりました。おそらく、その時からだと思いますが、教会は派遣と帰還というリズムを失って、教会とは集い(エクレーシア)のことだという暗黙の理解が広がるようになったのではないでしょうか。つい最近まで、アフリカでは教会のメンバーになるということは、毎日の生活ではしたことのないような格好、つまり、革靴を履き洋服を着るということと結びついていたそうです。この例に示されるように、後進の教会にとって先ず重要なことは、キリスト教の信仰を伝えた先進教会の言う通りにすることであったと言うことができます。これは、先進教会といわれる教会でも同じことで、どのように聖書を解釈しどのように礼拝をすることが正しいことかというようなことが、何にも増して大切でありました。 教会は地の塩となるよう招かれているかもしれません。その場合、教会は果たして塩味をつけられているのでしょうか。あるいは、まだ塩味がつけられていないのでしょうか。それとも、塩味が失われているのでしょうか。このイースターの季節にもう一度考え直したいと思ったことでありました。 |