日本聖公会各教区報のなかから
☆毎月、広報主事宛に送っていただく各教区報等のなかから、ご紹介しております。
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■九州教区報・はばたく 第367号 ■神戸教区報・神のおとずれ 第444号 |
| 主のご復活に感謝 ―菊池黎明会の歌人津田治子― |
| 九州教区報・はばたく (第367号・2001年4月号) |
| 「わたしは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。」 テモテへの手紙U1:11以下 |
キリストがわたしたちを励まし命を与えてくださるためにこの世に来てくださったとき、その働きを明らかに表わされてその名をインマヌエルとされたことはマタイの福音書1章23節に記されているところです。インマヌエルとは「神はわたしたちと共にいてくださる」との意味です。
名前の通りに、共にいてくださることを初めて公に表明されたキリストの行いは洗礼を受けられることでした。罪のない方であるにも拘らず、罪の赦しの洗礼を受けられました。それは丁度、親が子供の罪、過ちを自分のこととして受けて償いをするのと同じように、キリストが人の罪、過ちを自分のこととして受け入れられた行いでした。罪と弱さを持った人を愛する故に、自分も罪と弱さある者となった。それ故に、罪の赦しの洗礼が必要となったわけです。
共にいてくださるキリスト。
わたしたちには、罪、過ちに限らず、引受けなければならない辛いことがそれぞれにあります。
辛い病気になり動けない人もいます。病気のために体が損なわれるだけではなく、理不尽にも、社会的に損なわれてしまう人もいます。その辛さの中でさまざまな体験をされた人々が菊池黎明教会におられます。その一人に、今は逝去されていますがアララギ派の歌人として知られる津田治子がおります。
治子は16歳でハンセン病が発病し、まだ薬が無かった時代のことでしたので次々と辛い状況になっていきました。その苦しさの中で次のように詠んでいます。
いたづきの三十餘年ありしのみ
どう思いても涙のにじむ
病気になることを「いたづく」と言うそうですが、ハンセン病に苦しんだ人は主イエスの十字架の板につくことと兼ね合せて詠んでいるとのこと。その解釈を知らされたとき「ウーン」と唸り、言葉を失いました。
しかし、さほどの苦しみの中で、キリストが共にいてくださることに出会えた信仰を治子は次のように詠んでいます。
苦しみのきわまるときにしあわせの
きわまるらしもかたじけなけれ
十字架の板につくような人生を送らねばならない苦しみにある治子が「しあわせのきわまるらしも、かたじけなけれ」と詠んでいる。
心の深いところでの津田治子とキリストの出会いに驚きと光を見る思いがいたします。
共にいてくださるキリストは、わたしたちが死ぬときにも決して一人に置き去りにすることはなさらない。死の苦しみのとき、それを理解してくださり、共に嘆き、共に悲しんでくださる。わたしたちの思いをよく感じておられる主は、死ぬときにも共に死んでくださる。
「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる」との聖パウロのテモテヘの手紙は励ましと希望となります。
人知を越えたキリストの復活の出来事は、人は死で終りではなく、永遠の命へとキリストが導いてくださる約束のしるしとなっています。
またキリストが、津田治子の耐え忍ぶ人生を共に送ってくださった故に、治子は苦しみにも負けず、苦しみを支配して、苦しみを通じて主を賛美し、「かたじけなけれ」と述べることができたのではないでしょうか。
十字架の死に至るまでわたしたちを愛し、共にいてくださるキリストに心から感謝いたします。
(教区主教 ガブリエル 五十嵐正司)
| 松山聖アンデレ教会での地震 ―芸予地震、松山を直撃― |
| 神戸教区報・神のおとずれ (第444号・2001年4月15日発行) |
☆3月24日 この日は翌日の洗礼式の祝会と藤井司祭と御家族の送別会の準備ため、10人余の信徒が朝から教会に来て、会食作りや教会、会館の掃除をしていました。私は昼に徳島の実家から松山の教会に着きました。
昼食を頂いた後、私と名田さん、そして2人の子供たちが礼拝堂の掃除に取り掛かりました。この日の掃除は、名田さん曰く、いつもより丁寧に行われたそうです。そして3時になって、教会に来ていたみんなは、お団子とお茶でしばしのくつろいだ時間を過ごしていたのでした。そこに地震が起こりました。
☆安芸灘地震 私は阪神・淡路大震災のときには尼崎に住んでおり、また昨年の冬には教会実習でまだ震度4の余震が続いていた山陰伝道区にいたので、ある意味で地震は慣れていました。ですから、この度の地震もはじめのうちは「あっ、また地震や」という程度にしか思っていませんでした。しかし、地震の揺れは止まることなく、益々激しくなっていったのでした。そして、ある信徒が悲鳴をあげたので、私も「この地震はいつもの地震ではない」と気づき、まず向かいに座っていた人の後ろにあった食器棚を手で抑えに行こうとしたのですが、揺れが激しくて足を2歩前に出すことすらできませんでした。私の印象では、この度の地震はあの阪神・淡路大地震ほどの激しさはありませんでしたが、揺れていた時間はあのときよりも長かったように思います。
その長い揺れが収まって、周囲を見ると、横にそろっていた椅子は乱れ、中には椅子から落ちて床に投げ出されている人もいました。私たちがそのときにいた建物は、2階に牧師館がある築69年の木造2階建ての一階でしたが、私たちのいたホールは2階のない場所であったので、みんなこの場所に留まっていよう、ということになりました。しかし、その中にいたある人が、「お鍋の火が点いていたかもしれない」と言ったので、多くの人が台所に急いだのでした。このとき私は、以前から地震が来たら危ない、と思っていた礼拝堂に目を向けましたが、そこから見えた礼拝堂の南側は何ともなっていないように見えたので、みんなの後を追って台所に向かったのでした。台所では火の手はあがっていませんでしたが、準備していた食材が散らかっていました。
☆レンガ造リの礼拝堂 散らかっていた台所は今日来たばかりの私よりもよくわかっている御婦人方に任せ、私は今一度、気になる礼拝堂の確認に行きました。礼拝堂に入ってすぐは、いつも通り正面に大きな十字架が天井から吊るされていたので大丈夫かな、と思いました。しかし、暗いはずの礼拝堂が明るく、その光は十字架の後ろから差し込んでおり、私はそのとき初めて正面の壁が崩れていることに気がつきました。そして、私は急いで外に出て、礼拝堂の裏側に回り、崩れ落ちたレンガの壁を目の当たりにしました。このとき私は以前、阪神・淡路大震災で瓦礫の山となった町を見た時と同じように、気が抜けたような状態になりました。しかし、これをみんなに知らせなければと思い、会館の方に行くと、さっきまで一緒に礼拝堂の掃除をしていた名田さんがいたので、名田さんを礼拝堂の裏へ連れて行きました。名田さんは長年親しんできた礼拝堂が壊れているのを見て、横にいた私に伝わるほどの悲しみに陥っていました。そして、名田さんからみんなに礼拝堂が壊れていることが告げられ、そこにいたみんなが壊れてしまった礼拝堂を目にし、みんなは口にはできない悲しみに包まれてしまったのでした。しかし、信徒のみんなは礼拝堂をおちおち眺めていることができない状況にあり、それぞれの家に帰り、私は教会に残って大洲の教会に行っている藤井司祭の帰りを待ちました。
☆ホールでの礼拝 次の日になって多くの人が教会に訪れました。食器が壊れたり、瓦が落ちたりするなどの被害はありましたが、誰一人怪我をすることなく、無事であると知り、ホッとしました。しかし、その日の聖餐式および洗礼式は、この礼拝堂は今後も危険である、との藤井司祭の判断で、ホールで行われました。今後もこの礼拝堂で礼拝が行われるという見通しはついておりません。
(聖職候補生 ペテロ 中原康貴)
| 「アジア通信」終刊 |
| ―NCCキリスト教 アジア資料センターの20年― |
NCCキリスト教アジア資料センターは、この3月をもって20年間にわたる歴史を閉じた。機関紙「アジア通信」最終号(No.189)では、20年の働きと残された課題について検証する座談会を特集したが、日本聖公会からは山野繁子司祭(本資料センター元総主事・東京教区司祭)が参加している。以下、山野司祭の発言の一部を紹介する。
《変動する時代と資料センターの働き》
山野:わたしは1987年度から91年度の時代に、資料センターをとおしてアジアと日本に関わらせていただいたのですが、この時期にも、アジアのキリスト者にとって危機的な時代でした。最初の「アジア通信」は、隅谷先生、中嶋先生、前島先生の北朝鮮訪問の報告号でした。その年の5月にはシンガポールの民主的活動家16人が緊急逮捕され、国内治安法で拘束されました。その年の夏には、フィリピンのキリスト者で、アジアキリスト教協議会スタッフの一人が、フィリピン国軍に拉致され、拷問されるという事件に直面しました。9月にはマレーシアで人権活動に携わる人々が大量に逮捕され、東京でも抗議行動が行われました。さらにアジア全域にわたる激動が続き、韓国、ビルマ、中国の民主化運動は、アジアの人々の心を激しく揺り動かしていました。
朝鮮半島統一に関する韓国NCCの画期的な声明(88年)、世界教会協議会(WCC)の「朝鮮半島の平和のための国際会議」(89年仁川)、同じくWCCの「正義・平和・被造物の保全」のための会議(90年ソウル)、湾岸戦争と日本の加担に対して、日本の宗教者・市民が中東パレスチナの民衆への連帯を表明する活動(91年)などが、この時期のできごとの一端でした。
この時期の資料センターの活動としては、膨大な情報から取捨選択して、日本の教会・キリスト者に伝える役割を果たすと同時に、問題提起・行動提起型の活動になっていきます。日本の教会が、アジア・中東の苦難の現実にどう応答していくか、という問いかけをし、自らその問いを受けとめる努力を迫られるわけです。
日本の教会で将来的なリーダーとなっていく人々と共に、現実を踏まえた応答の可能性を模索するためのワークシヨッブを続け、また、フィリピンヘのスタディツアーを組織しました。アメリカの合同メソジスト教会は、支援の意味を含めて、日系米国人、韓国系米国人などの青年をミッション・インターンとして派遣してくださいました。情報のシェア、国内的・国際的連帯活動、指導者研修、ネットワーキングというさまざまな働きが要求されていたように思います。
《残された課題》
山野:わたしたち日本のキリスト者が、アジアから問われていることとかみ合う応答をなし得てこなかったということが、今一番直面しなければならないことなのではないかと感じさせられました。わたしたち日本聖公会のなかでも、宣教とは何かという根本的な問いが大きく問われています。「まず今ある教会を守り、大きくしなければ・・・」という対内的危機感に基づく<絶対命題>のまえに、日本のキリスト者がアジアという現実の文脈の中で福音をどう理解し、どう表現していくかということを、まだ見出し得ていないのではないか、というすぐれて神学的な問いを与えられたのだと感じています。
資料センターの閉鎖という現実の中でも、アジアの民衆の苦難という事実は変わらないわけですから、たとえ「今わたしたちは神学的な問いに取り組む必要があります」と言ったとしても、だからといって人々の苦しみに心を寄せないことの口実にはなり得ないと思います。
わたしたちには「神学的課題」があることを認識しつつ、なおかつ、アジアの現実と関わり続ける事は、忘れてはならない現在進行形の課題であることを覚えていたいと思います。