2001年10月25日 158号 《速報版》
日本聖公会管区事務所
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発行者 総主事 司祭 輿石 勇

 

エクレーシア再考

管区事務所総主事 司祭 サムエル 輿石 勇

聖餐式の別称であるミサという言葉が、聖餐式文の最後にある「ハレルヤ主とともに行きましょう」という言葉に由来することは皆様よくご存じだと思います。教会は聖餐式のためにだけ集まるわけではありませんが、教会の生活にとって核心的な重要性を持つ聖餐式が「出てゆきましょう」という呼びかけで終わること、またその言葉で聖餐式そのものを指し示すのは決して偶然ではないと思います。

 教会、と日本語で翻訳されているエクレーシアというギリシャ語が「集会」を意味する言葉であることも多くの方がご存じのことでしょう。ミサとエクレーシアとは、エクレーシア(集会)がミサ(「出てゆく」こと)をその生活の中心としているという関係にあると言うことができると思います。したがいまして、教会は「出てゆく」ための集会ですから、集会だけに精力を注ぐのは本末転倒とまでは言わないとしても、少なくとも健康だということはできないように思います。しかし、一方で教会は「キリストの体」だとか「証の共同体」、また場合によっては「家族である」と言われることもありますので、凝集性の高い共同性を維持することが重要だと思い込みがちです。また、この世界の根本的な原理とでも言うべき「自己保存」本能は抗い難く私たちにも働きかけますので、教会が他の団体に抜きん出て隆盛となるために献身するなどということも起こります。

 もう30年以上も昔、まだ私が学生の頃に、北関東教区に青年協議会という集会がありました。それは、まさに「集会」と表現するしかないものでした。その青年の集会は、恐らく、後に京都教区主教になられた森譲教育部長や大久保主教が構想した、青年運動の形でありました。それは、大久保主教などが、先に述べた「ミサ」を本質とする「エクレーシア」が教会の生き方であることを体験的に学ぶよう青年たちに期待してのことだったのでしょう。「北関東教区青年協議会は教区の青年が集まる時だけ成立するのであって、普段、青年はただ各教会に点々として働いているのだ」と何度も説明されました。しかし、「組織主義」に毒されていた私には、「その集会を呼びかけるのは誰なのか、点在する青年たちと連絡を取るのは誰なのか」というような疑問が生ずるばかりでした。今になって思えば、青年協議会が役員会などを持った恒常的な組織になると、組織維持を自己目的化するようになることに対する自戒がこめられていたのでしょう。「集会する時にだけ成立するものだ」という青年協議会の性格規定が「ネットワーク」というようなうまい言葉で補足説明されていれば、それが自己保存のためにエネルギーを浪費するのではなく、それぞれの場で求められる課題の執行にエネルギーを傾注することを前提として、その働きを分かち合うことこそ必要であるというふうに理解できたかも知れません。

 最近、私のある知人は「エクレーシア」という言葉を「連帯」、あるいは「分かち合い」などの言葉に翻訳することを提唱しています。点々とそれぞれの場で信徒として暮らすことなしに、エクレーシアは成立しないからです。なぜならば、その点々と暮らすそれぞれの場が、ミサ(「出てゆく」)の前提だからだと思います。