総裁主教の聖パウロ大聖堂(ヴァ−モント州バーリントン)における説教
(聖霊降臨後第16主日)


 「私たちの傷をいやすために」
─神との一致、お互いの一致の回復に向けて─


エレミヤ書8:18−9:1
テモテ一2:1−7
ルカ16:1−13

 わたしの喜びは去り、わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱り果てる…

 わたしたちが個人としてまた全体として、エヴェリン・アンダーヒルの言う、「希薄な場所(万全ではない場所)」にいる自分に気付く時、多くの場合、自分の心の深くにわだかまっている思いに形を与えるのは聖書です。聖書は、信仰の先達の喜びと嘆き、重荷と願いに満ちた言葉だからです。

 「わたしの喜びは去り、わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱り果てる」。エレミヤの言葉は嘆きのことばです。「わが哀れな民の殺戮のためにわたしは昼も夜も泣く」。嘆きは、「暴力、戦い、殺人」が日常的な現実となっているこの世界の多くの場所で余りにもおなじみの聖書的な語りの形式です。スーダンの兄弟姉妹はこの恐るべき真実の証人です。そしていまや嘆きは、わたしたちの現実となりました。

 9月11日の同時多発テロの事件のせいで、わたしたち合衆国に住む者は、大破壊と一発勝負をしかけようとする、宗教のふりをした、イデオロギーを奉ずる国の仲間になっています。無敵な者(インヴィンシブル)は弱さを見せる者であり、弱さをさらすその瞬間に扉が開かれて、その入り口を通れば、わたしたちは死と破壊を超えてテロリズムのよこしまで悪魔的な力に今も現実に脅かされている人々との新しい連帯に導かれるでありましょう。

 しかし、嘆きは一つの終わりではなく、自己省察と自己検証にいたる「なぜ」という問いへの道を開きます。わたしたちが苦しんだこと、や今苦しんでいることから、わたしたちは自分自身や他者との関係における自分について何を学ぶのでしょうか。余りにも突然にまた暴力的にわたしたちにおそいかかったことは、わたしたちの意識をどのように変化させるのでしょうか。あの業火に満ちた恐ろしい日は、単にアメリカ人としてではなく、信仰者として、わたしたちにどのような献身を求めるのでしょうか。

 たった今、福音書朗読の中でわたしたちは、イエスさまが二人の主人に仕える僕(しもべ)はいないのだから、わたしたちは神と富とにかね仕えることはできない、と宣言なさるのを聞いたばかりです。イエスさまが奉仕についてお話になるときにお示しになっておられることは、わたしたちが召されている献身の領域、─それは根源的に最も深いところでわたしたちの心が求めていることですが─、はわたしの人生の基本的な姿勢とは何かということです。

 もし、わたしたちの生活が神を志向するのであれば、わたしたちは神の慈しみと思いやりにつつまれていることに気付きます。神の「強く結ぶ愛」、いつくしみと思いやり、わたしたちにまで伸び広がる愛は、わたしたちの石の心をこじ開け、肉の心、全てを包み込む神の思いやりの力のうちに他者を包み込むことのできる心、に変えるのです。

 はるか昔、東方教会の大賢者のひとりであるシリアの聖イサクは、「慈しみあり、また思いやりのある心とは何か」という問題を出しました。彼はその問いに次のように答えています。

 それは創造された全て、人類、鳥類、獣、悪魔、全ての被造物、に対する愛に燃えている心である。このような心を持った人が被造物に思いを寄せ目を注ぐ時、彼らの目に涙が溢れる。圧倒的な思いやりが彼らの心を小さく弱くし、彼らは被造物にふりかかるどのような苦しみをも、ほんのわずかな痛みでさえも、見たり聞いたりすることに耐えられなくなる。だからこそ彼らは理性を持たない動物や、真理に背く者でも、また自分に悪を行う者のためにさえ、これらの動物や人間たちが守られ神の慈しみを受けるよう求めて、涙と共に祈り続けるのだ。また卑劣な者たちのためにも、彼らが再び輝きを取り戻し神のように栄光に満ちるまで、彼らの心に絶えず湧き上がる思いやりをもって、祈るのである。

 動物や悪魔、敵や卑劣な者をも含みうる、この全てを包み込む思いやりは、わたしたちの努力や想像を越えたものです。つまり、それは賜物なのです。それは、わたしたちをキリストに方向転換させるための洗礼やユーカリストという毎週の分かち合い全体を示す、わたしたちのうちにキリストが形造られ、わたしたちがキリストに従っていることの結果です。

 ですから、神に仕えるということは、わたしたちが全能の神を喜ばせようとして勝手に選んだ課題をひたすら執行するというようなことではなく、聖霊によってキリストの思いと心がわたしたちの内に働いて、わたしたちの思いやり、わたしたちが義にかなう状態が十字架から世界を、民の全てを、そして全ての事物をご自身に、その包み込む愛に、引き寄せる方を示すことなのです。

 富をめざした生活はこれとは全く違った実を結ぶことになります。思いやりが、わたしたちを取り巻く世界との関係で、わたしたちを外向きに転換させるのに対して、富はそれだけでわたしたちを分離させ、わたしたちを自己中心的な防衛に転換させるのです。ここで言う富とは単純にお金のことではなく、地位、民族、皮膚の色、教育、文化、国籍、宗教などを含んでいます。

 富は、個人的なものでも、また共同的なものでもあります。わたしたちは、たとえば、国富について語りますし、そこから全ての努力を傾けて守らなければならない、通称「国の益」が生じます。

 わたしたち同胞だけではなく他の諸国の人々を含め、多くの人々のいのちを奪ったこの数日の悲劇的な事件によって、わたしたちは嘆きの心を持ちつつもわたしたち自身について問い、また、一つの国として自己検証するという厳粛な課題を引き受けるよう招かれているのではないでしょうか。

 9月11日の攻撃が、邪悪で狂喜の行為であったことは明らかです。そのような行為は、思いやりそのものであるはずの、神を自殺と殺人と破壊の神に変質させる悪魔的な熱意につき動かされたものです。そのことは、わたしたちがテロリズムに対する戦争のため諸国がわが国と共同戦線を組むよう求めるに際して、わたしたちもその一員である地球規模の共同体との関係で、わが国の利益を検討するよう招かれているということを明確に語っているのではないでしょうか。

 わたしたちの利益やその無批判な追求が、どのように他の国々やその諸国民の福祉に影響を与えるのでしょうか。「神のもとにある国」と自分で呼ぶ、わたしたちは、「人間とすべての被造物に対する」神の思いやりに応じてわたしたちの生活をあらためて方向づけるべく、どのように招かれているのでしょうか。

 自分の気に入らなかったり、得にならないと判断すれば、国際的な対話の席さえも、簡単に蹴ってしまう、そのようなわたしたちは、神の正しさに関わる心、また世界に対する神の願いである、全てを包み込む神の思いやりに仕えることによって、わたしたちの富を分け与えるよう召されています。ちょうどテロリズムを非武装化しようとするわたしたちの努力が規律と犠牲を要するのと同様に、今わたしたちが、新たに無力な仕方で、一員として属している地球家族に仕えるために、わたしたちの国益をあらためて方向づけることも必要とされているのです。

 思いやりの道は、思いやりを受ける人々だけではなく、それを実践する人々をも変革し癒します。神の思いやりが自分の心に湧き上がることを許す人々は「輝き、神のように栄光につつまれます」、あるいはイザヤの言うように思いやりを宿す人びと「の光は曙のように射し出で、その傷は速やかにいやされる」(58:8)のです。

 神のお働き、したがって教会の使命は、和解の働き、つまり「キリストにおいて全ての人を神との一致また互いの一致に回復する」ことです。また、神の思いやり、神の慈しみ、神のやさしい愛、神の強く結合させる愛は、和解をもたらす実際的な原則です。その和解とは、違いが尊重されると共に神の創造的なおもいの中で統合される一致に全てのものを集めることなのです。

 キリストに向かって生きるための洗礼を受けたわたしたちそれぞれが、和解のための働きの中で思いやりの心を与えられますように、また一つの国としてわたしたちが、報復や復讐によってではなく、世界中の「飢えた人びとと自分の食物を分かち合うこと」によって、わたしたちの癒しを求めることができますように、祈ります。そのような生き方だけが、わたしたちの光を曙のように射し出で、わたしたちの傷を速やかにいやすのです。 アーメン