リチャード・ノラン

 「イスラム」という言葉は、平和、純粋、服従、従順などを意味するアラビア語の語源サラアマに由来する。イスラムとは神の意思に服従し神の法に従順に生きることによって平和にするという意味である。ユダヤ人やキリスト者はイスラムを世界の大宗教の内一番新しいものと考えている。しかし、世界のモスリムはその世界規模の宗教を「最後の宗教」かつ「最古の宗教」と理解している。

 「最後の」というのは、イスラムはそれに先立つ全てを成就した、預言者的宗教の最後の啓示だからである。モーセは法を授かり、ダビデは詩篇を授かり、イエスは福音書を授かった。ユダヤ教は公正という神の使信を与え、キリスト教は神の愛を宣言する。アブラハムとイエスの神はマホメット(紀元570〜632、モハメドなどいろいろな綴り方がある)にコーラン(繰り返し朗誦する』を意味するアラビア語)を啓示した。アラビア語で書かれたコーランは、イスラム教の聖なる文書で、全てそれに先立つ神の啓示の完成であり、神の直接的な言葉として文字通り理解されなければならない。この文書の字義通り解釈という意味で、全てのモスリム教徒は「根本(原理)主義者」と呼ぶことができよう。しかし、少数の攻撃的な態度をとる人びとを指すには、「戦闘的」とか「過激派」という言葉を使うのが適切である。

 モスリムは全ての聖書の預言者を信ずる。コーランそのものがトーラー(モーセ五書の呼び名)や福音書を神によってモーセとイエスに啓示された書と述べている。しかし、コーランは、本来の本文と注釈が混じり合い、伝承やほかの理由で本文に欠損が生じたために、時と共に実際の聖書の本文に変更が加えられたと述べている。このような理由から、コーランにあることあるいは少なくともコーランと一致しない限り、モスリムは啓示の源としてトーラーや福音書を絶対的に信頼することはできない。

 マホメットは、「預言者たちの代表」として、またアラー(アラビア語の「神」)の使徒なので、神でもなければイスラム教の中心でもないので、この宗教をマホメット教と呼んではならないのである。モスリム教徒は多くの人種的かつ民族的な背景を持っており、アラブ人はむしろ少数である。世界で10億人以上いるとされる(内アメリカに600万人)モスリム教徒にとって、イスラムはユダヤ教とキリスト教の中間の道であって、アブラハムの子らの一致を回復し、ユダヤ教とキリスト教の制約を乗り越えるものである。「イスラエルの失われた羊に対する」預言者であるイエスは、キリスト教を制約し、同様にユダヤ教も制約される。イスラムはユダヤ教とキリスト教を全人類のために実践的に統合すると趣向する。ユダヤ教の公正とキリスト教の理想主義的愛という両者の不完全さを乗り越えて、イスラムはユダヤ教とキリスト教が予期した全てのことを完成する。モスリム信徒にとってイスラムは完成されたユダヤ教および完成されたキリスト教である。

 「最古の宗教」であるイスラムはアダム、アブラハムおよび人間の正しい宗教である。イスラムはユダヤ教やキリスト教より若いのではなく、そのいずれにも先立つものである。イスラムは「語られた書物」(コーラン)の宗教であるのみならず、「創造された書物」(宇宙そのものを織り成すもの)の宗教でもある。モスリムの信仰によれば、すべての人はモスリムに生まれるが、それぞれの環境のゆがみによってキリスト教やユダヤ教あるいは無宗教に迷い出るのである。したがって人間であるということはモスリムだということである。

・信仰
 イスラムの根底をなす教理は(1)アブラハム、イエス、マホメットの神への信仰、(2)言語的に誤りのないコーランへの信仰、を含んでいる。コーランの記事によれば、天使ガブリエルがマホメットに現れて数年にわたってこの聖なる書物の内容を啓示したのである。(3)マホメットが最後で最大でありアラーの使信を人間に伝えるよう派遣された者、すなわち、アラーの預言者への信仰。アブラハム、モーセとナザレのイエスも預言者と認められる。また、コーランではイエスはメシアと認められ、マリアは非常に尊敬される。(4)全ての民がその行いによって裁かれ、天もしくは地獄に行く死後の世界への信仰。

 イスラムはまた、平和はこの世界の人間の諸集団の中で実現されなければならないと教えている。平和の確立によって神に参加するということである。モスリムは「努める」という意味を持つジハドに献身するよう召されている。基本的なジハドは、誰かの信仰について語り、神への従順によって信仰を実現し、人が聖にして義なる生活を送ることを確実にするために、自分と戦うことである。もう一つの戦いは、信仰が攻撃されたり、モスリムがその信仰生活を認められない時にだけ戦われる、「聖戦」としてのジハドである。悪が満ちていると思われる環境であっても、「剣によるジハド」を召集するのは、非常に限られたモスリムだけである。

 ウマー、もしくはイスラム社会なり国家、は神の意思を実現するための輝かしい場であり、それ以外の世界に対する模範とならなければならない。イスラム教の社会理論では、ウマーはメンバーの、思いの合意、こころの合意、力の合意、という三種類の合意によって形成される。ウマーはその社会のメンバー全員が現実について同一の見解を共有することにおいて思いの合意によって形成される。それはまた、全員が同じ価値感を持つことによるこころの合意によって形成される。それはさらに全員がその価値の実現に努めることによる力の合意によって形成される。コーランはウマーが神から人類に与えられた全人類社会の中で抜群のものであるとはっきり述べている。

・生活
 「イスラムの5本の柱」(義務)は(1)「世界にはアラー以外に神はなく、マホメットは神の使いである」という信仰の告白、(2)日に5回祈ること、(3)いろいろな形で、富を分かち合うか捧げ物をすること、(4)ラマダンの月には反省と鍛錬のために断食すること、(5)できるだけ、少なくとも一生に一度メッカに巡礼すること。

 聖職ではないけれども、宗教に関する学者や地域の宗教指導者がある種の聖職階級に転じてきた。モスリムは日に5回祈り、金曜日には昼の祈りをモスクで捧げることが望ましいとされる。

・シーア派とスンニ派
 マホメットの死後、その預言者の敬称をめぐって分裂が生じた。これが、モスリムの90パーセントを占め、自らをイスラムの正統派とするスンニ派を登場させたのである。もう一つの集団であるシーア派は、主にイランに住んでおり、同様に自分を正統派モスリムと考えている。この両派は継承の問題と、コーランとハディト(預言者の言葉と行いに関する諸伝統)に基づいた総合的な道徳規定と宗教的義務を記した、シャリア(正しい道)に関するいくつかの解釈において違っている。

 イスラム教シーア派の特徴には名誉ある殉教と、危機に際して行われる聖戦を含む、強烈な行動とがある。シーア派の信仰によれば、一国の政府は、イマム(特別な霊的指導者)を通して神の支配する政府、つまり神政政治でなければならない。どの集団でもそうだが、シーア派にも穏健派と過激派とがいる。

現代のイスラム教の諸問題

 世界的な視点でモスリムが直面している諸問題は実践的なものでモスリム社会に関連している。すでに信仰は最終的な形で与えられているので、哲学的な関心や神学的な関心は昔も今もさして重要ではない。とは言え、伝統主義者と近代主義者との争いが起こっている。

 伝統主義者は、コーランの法の字義通りの解釈やその現代生活への適応に忠実であることなど、イスラム教本来の信仰や習慣に専心している。近代主義者は宗教法の原則、目標、また根本的な目的は不変であると考えているが、永遠の真理を表現する特定の諸形式は、変化する人間の環境に応じて常に変わらなければならないと考えている。

 モスリムの指導者は国家への忠誠に関して二分される。植民地主義の結果、モスリムの世界は多くの国民国家に分割されるようになった。ある指導者はこの環境を承認するが、別の人々はイスラムの統一精神が政治的なナショナリズムによって裏切られることを恐れている。何世紀にもわたって中央的な権威はなかったが、イスラムは特別な一致の精神を保持している。しかし、モスリム世界に多様な政治構造が生じてくるにしたがって、少数者であろうが、ある人びとは宗教的一致のためにもっと中央集権的な指導性があっても良いと考えるようになってきた。ほかの人びとは神だけが地上的に媒介する権威などなしに支配すると考えている。

(筆者は聖公会司祭である。本稿は東南フロリダ教区の新聞『ネット』のために寄稿したものである。)
ENS2001-263 9月20日号